「思いつき」と「論理的思考」は違う

これはつい先ほど気づいたことだけれど、もしかしたらここ1週間で一番大きな発見になるかもしれない。

 

自分は昔から、考えることが好きなくせに考えることに対して苦手意識を持っているような人間で…
どうにかうまく考えることはできないかなって常日頃から考えてる。

メモの仕方だったり、思考の仕方だったり…
思考の仕方に関するハウツー本もたくさん読んでいたりする。

結果的に、ハウツー本はほとんど役に立ってない。
いや、無意識のレベルで血肉になっているのかもしれないけれど。
赤羽 雄二さんの『0秒思考』って本にせよ、ちきりんの『自分のアタマで考えよう』にせよ、外山滋比古さんの『思考の整理学』にせよ。

原因についてはまだあまり考察していないけれど、一つには"思考"って行為そのものがとても個人的な行為だから、一般論や他者の方法論との落差がどうしても大きくなって、それゆえにどんな本も参考ぐらいにしかならないのかなと思う。

 

今回の思いつきは、位置づけ的には『0秒思考』や『思考の整理学』への反論になるのかもしれない。

まずは結論から。

 

「思いつき」と「論理的思考」は違うんだってこと。

 

「思いつき」ってのは、心に浮かんだことをひたすら書き綴る行為。
「論理的思考」は、論理的な思索の末に書き出す行為。
この二つ、おそらく前者と後者の境界は決して明確ではない。

思いつきの文章が論理を兼ね備えていないわけじゃない。
書くなかで自然と論理構造を意識できる人もいるだろうし、思いつきとはいうものの、常日頃から心の奥底で考えていたことが、ちょっとしたきっかけを機に言語化されたケースもある。
きっとそういったケースは、思いつきの文章といえど、ある程度の論理性を兼ね備えている。

つまり、読んで納得しやすいってこと。


ただ、一方で思いつきは一般的にいって論理が弱いというのもまた事実だろう。

結婚式の披露宴で急にスピーチしてくださいって言われて、その場で理路整然とした言葉をつらつらと述べることができる人は、おそらく常日頃から自分の意見を発信する機会にさらされている人だと思う。

だいたいのひとは、その場でしどろもどろになるか、どこかで聞いたことのあるあたりさわりのない話をするか、前々から思っていたことを述べるか…そんなところだろう。


とにかく、

ここで言いたいのは、「思いつき」というのは、論理的思考によって十分な批判に晒されていないってこと。

批判ってのは比較検討したり、なぜ?とかそれが何?とかごりごり考えること。

自分はこれを、さながら本の新刊が数年〜数十年の間に名作以外忘れられていく様=時の洗礼とよぶことに例えて、

"論理の洗礼"と呼ぼう。

 

思いつきは"論理の洗礼"を受けていない。

"論理の洗礼"を受けていないということは、非常に薄っぺらい論理によって、その発想・構想・アイデアは支えられている可能性が高いということ。

 

『0秒思考』や『思考の整理学』という本では"思いつき"については詳しく述べられているが、この"論理の洗礼"については忘れられている。

"思いつき"を思考だと勘違いしてしまうと、その人の発言や書く文章はとても薄っぺらいものになりがち。
常日頃から思いついたことをメモすることはとても良いことだけれど、それが"論理の洗礼"を超えたものなのか、そうでないのかは意識した方が良いと思った。

 

以上、今日の思いつき…いや、思考は終わり。