思考は積み木遊びに同じ
これは昨日思いついたことなんだけれど、我ながら腑に落ちる感じがしたので共有したい。
物事を考えることは積み木を積み上げていく行為に喩えられるのではないか、という話。
子どもが積み木で遊ぶためには3つ必要なものがあると思う。
1つ目が遊び場。遊ぶためのスペースがなくっちゃ遊びようが無い。
2つ目が積み木。積み上げるもの、それ自身がなくては積み木遊びとは言わない。
3つ目が構想。積み木を積み上げた末にどんなものを創りたいかってイメージ。あるいは、こんな風に積み上げてみたいっていう積み上げ方も含む。
これらがあって初めて子どもは積み木で遊ぶことができる。
で、本題はこれからで…
思考は積み木と似ているのでは?と思った。
思考っていってもいろんなシチュエーション・いろんな形があるから、ここでいう思考は、ニュースとかを読んであーだこーだ考えたり、大学入試とかで小論文を書く際に考えたりするときの思考って意味。
積み木と同じように、思考はスペースと積み上げるものと、構想が必要なんじゃないかと思う。
"スペース"はわかりづらいから、先に積み上げるものと構想。
積み上げるものは、知識。ここでいう知識は、本の知識もそうだし、経験も含む。高く積み上げるために積み木がたくさん必要なように、より深く思考する為には十分な量の知識が必要になってくる。
アイザック・ニュートンが、巨人の肩の上に立つって表現したこととも重なる。
ただ、知識はとても大事だけれど、それだけあっても思考は生まれない。応用が利かないし、他の知識と有機的に結びつかない。
他の知識と有機的に結びつけるために必要なのが、思考のための遊び場。
自分はこの遊び場を、思考の地図と呼ぼうと思う。
1つ1つの知識は積み木に過ぎなくて、それをどんな風に使うかはその人次第。縦にしても横にしてもいいし、寝かせておいてもいい。
大事なのは積み木としての知識同士の距離感。この距離感をつかめていないと、いたずらに知識を溜め込むだけになってしまう。この距離感をつかむ為に必要になるのが、地図上での座標。
そして各々の知識の座標を把握する行為が体系化なんだと思う。これについてはまた今度述べようと思う。
そして、構想は、思想あるいは思考法ということになる。
結論として、
知識は必要だけれど、それだけではいけないし、
思考法も必要だけれど、それだけでもいけないし、
何より、
思考の地図を作ることも必要不可欠なんじゃないか。
以上ぼやぼやと思ったことをまとめてみた。参考になれば。