原理を中心としたニーズの階層構造

今日は原理的に考えることについて。
ここ1ヶ月はひたすら哲学を勉強していた。哲学にわざわざ時間を割いた理由はたくさんあるが、1つは思考の型を見つけ出したいというものがあった。
哲学というのは、宗教くさいものでもなく、自己啓発的なものでもなく、難解で一般の人が手に届かないものというわけでもない。
これらは全て誤解に過ぎない。
哲学はいつでも誰にでも門戸を開いている。
哲学の本質は実にシンプルなのだ。

「原理に立ち戻って考えること」

たったこの一言で哲学の本質のほぼ全てを言い表している。
別に難解な言葉をこねくり回さなくたって、人生における様々な悩み・社会に生じる問題・人間の謎…そういった疑問に安易な回答を求めず、愚直に原点に立ち戻って考える。そのとき、誰しもが哲学徒なのだ。

 

この原理的な思考は物事を考えるときの基本だ。
人間の行動の選択は、原理を中心としたニーズ(欲求)の階層構造になっていると思う。
・幸せに生きたい
といった根源的なニーズ(欲求)の外側に、
・美味しいものを食べたい
・人間関係に悩まず生きたい
・仕事で成果を残したい
などといったより一段と抽象度が下がるニーズ(欲求)が続き、さらにそれぞれのニーズがまたさらに分化し具体化される。最終的に目の前の行動の選択肢へたどり着く。


僕らが社会をより主体的に、あるいは後悔しないように、また効果的に生きていくためには、この原理を中心としたニーズの階層構造において、原理と具体的な目の前の行動のいったりきたり思考することが重要になる。

忙しい日々を過ごしていると、この原理のいったりきたりをついつい忘れてしまい、具体的な目の前の行動の選択肢ばかり考えるようになる。
そんな人生はあまり送りたくないものだ。

この考え方を押し広げてみる。
この"原理を中心としたニーズの階層構造"は個人に固有のものではないのではないか。
他人にだって当てはめることはできるだろうし、会社などにも当てはめることができる。国にも当てはめることができるだろう。
それぞれが固有の中心軸を持ち、それを囲うように同心円状に階層構造が広がっているのではないか。

自分は今とあるアプリを作ろうと思っている。
一応医者なので、保健系アプリだ。
その構想を練る上で、競合の分析は不可欠だ。
保健系に道場破りを仕掛けるにあたり、アプリの動きだけに注目していればいいか?否、医療系は特に行政の政策の動きを強く受けるし、他の(アプリではなく)組織…すなわち病院だったりヘルスケア企業だったりの動向はしっかりとアンテナを張っておく必要がある。


かといって、全てを詳細にチェックし続けることは不可能だ。
となると、一定の基準を持って競合を洗い出しチェックしていく必要がある。
その基準は?それが本質的なニーズになる。
そのアプリで一体何を解決したいと思っているのか?そもそも何を解決したいと思っているのか?その原点に立ち返ったとき、バッティングする組織が見えてくる。


タップスという会社がある。
自分はこの会社のCEOの佐藤航陽さんのことを心から尊敬していて、何年も前から応援し、彼の発信や著作は全て追っている。
彼の起業理由は、多くの起業家の度肝を抜くだろう。
「この世界の仕組みを解き明かす方法として一番適切に思えた手法がビジネスだった」
詳しくは、 

未来に先回りする思考法

未来に先回りする思考法

 

この本に載っている。
彼もまた、原理的に考えることの重要性を再三指摘している。
ちなみにこの本は自分が読んだビジネス書の中でトップレベルに内容が充実しているのでおすすめ。

でも、自分はさらにこう思うのだ。
彼が未来を先回りして思考ができているのは、ただ原理的に考えているからなのではない。
タップスの企業理念は"テクノロジーでお金と経済のあり方を変える"、言い換えるなら社会を変えようとしている。
そしてそんな会社のCEOだからこそ、未来を先回りするような原理的思考ができているのではないか。

 

"原理を中心としたニーズの階層構造"、この中心軸を彼は市場経済社会のど真ん中にぶっさして、そこから会社の事業運営を通して未来を見抜こうとした。
だから、彼は異次元の世界を見ることができているのではないか。

 

 

であれば、未来を見抜く一番の近道は、同じように同心円の中心軸を、社会の真ん中に据えるような事業を自ら作ることだ。

 

考えるべきは日本単位ではなくアジア単位


今日はこんな興味深い記事を読んだ。

工場やコンビニ「外国人がいないとやっていけない」のが現実│NEWSポストセブン

簡単に要約すると、もう日本の地方や工場、農業などは、外国人労働者の低賃金長時間労働によって成り立っているということだ。
数年前からニュースで時折取り上げられるようになっているとおり、今の日本人は低賃金での長時間労働の労働なんて誰もやりたがらない。一方で少子化で生産年齢人口は着々と減少しており、年々そういった職場の人手不足は深刻化していく。

 

本当にこの5年間ちょっとで、特にコンビニは様変わりしたのを実感している。
自分は千葉の都心部にいたわけだけれど、もはや外国人の店員さんの方がよっぽど多い。
同じような現象が、地方の工場や農業などでは平然と見られるということなんだろう。

そして、働き手不足を日本の企業がどこから補充しているかというと、アジアの新興国。一昔前は中国、今はベトナムなど。コンビニではインド人っぽい人もたくさんみる。
記事の通り、もうすでに日本は外国人労働者によって、いやもっと正確にいうのなら外国人労働者を搾取することによって成り立っている国だということ。

国が彼ら彼女らを、認めようが認めなかろうが、この国を下支えする必要不可欠な存在なのだ。

 


自分がこのニュースを読んで気になっているのは、日本は日本のことだけを考えていていいのか?といことだった。


これだけの外国人が国内で低賃金長時間労働をさせられているということは、日本という国はもはや日本人だけの国と捉えるべきではないだろう。
アジアの各国、中国やインド、ベトナムインドネシア…10年前とは比較にならないレベルで彼らの日本での影響力は強まっている。

 

日本という国を日本人だけの問題から見ることは間違っていないか?
自分は貧困問題や少子化問題、労働問題などなどを日本人に特有の切羽詰まった問題として見て、ほかの国の詳しい事情にはあまり関心を払っていなかった。

 

しかしだ。
中国は一人っ子政策の後遺症で、日本の後を追って超少子高齢化社会に突入することは当たり前だ。
現在高度経済成長を遂げている東南アジア諸国は、20年以上前の日本の高度経済成長期の労働問題・環境問題を繰り返している。
日本は日本の医療を輸出するために、近年千葉の国際医療福祉大学に医学部を新設した。

挙げればまだある。調べればもっと出てくるだろう。
肌感覚で捉えようとするとおそらく間違える。
冒頭のコンビニの例のように、かなり深いレベルで日本はもう東南アジア各国の人と切っては切れない国になっている。

であれば、考えるべきは日本単位ではなく、アジア単位で問題を認識し対処していく必要があるのではないか。

毎日ブログを更新することについて

毎日ブログを更新することの意味について。

自分は文章を書くことが好きなくせに文章を書くのは苦手で…去年もコンスタントなブログの更新に挑戦しては、何度も挫折を繰り返してきた。

今はなんとか記事を更新し続けている。
それでも、毎回パソコンを前に何を綴ればいいのだろうと悩んでいる。

個人的なこのブログの目標は、まずは思考力をあげること。
思考力は文章力。文章力は発信力。発信力は影響力だ。

 

今はインフルエンサー戦国時代。どれだけ影響力のある人になれるかで、仕事も未来も変わってくる。


影響力のある人になるためには、まず発信力をあげないといけない。
発信力のある人になるためには、まず文章力をあげないといけない。
文章力のある人あげるためには、まず思考力をあげないといけない。

 

もちろんYoutuberやInstagramerなど、別のSNSでは、発信力を下支えするものはまた別だ。
ただ自分の場合は、冒頭にも書いた通り、書くことが好きだから文章で勝負したい。

 

 

そうはいっても毎日投稿するのはなかなか苦労する。
毎日同じ時間帯に十分な時間が取れるわけじゃないし、書くことに困らないような充実した日を毎日過ごせているわけでもない。書きたいことがとめどなく出る日も稀にあるけれど、ほとんどの日は身を削って文章を綴っている。

 

色々戦略を考えて実践はしてきた。

自分のTwitterをまとめ直してみたり、iPhoneのメモ帳にある書き散らしを昇華してみたり。日記のようにその日あった経験を記事にしてみたり。

ただ、総じてこれらはジリ貧だなと思う。

自らの経験をストレートに切り売りしているから、例えば一日3回記事を更新しようなんて始めたら立ち行かなくなる。

 

もっと安定感をもって継続するためには、一日過ごすごとに書きたい記事が3つ4つと溜まっていくような、そんな毎日を過ごさないといけない。

 

発信するプラットホームが、ブログである必要はあるのかなとも考えた。TwitterやNewspicksでも考えたことの発信を行うのなら、ブログの更新は二日に一回とか頻度を減らしてもいいのかなって考えたりもした。


でも、やはり毎日書き続けようと思う。

理由は一つ。

たとえ短くとも…毎日自分らしい文章を書くことについて、問い直す時間を設けることは決して損じゃないと思ったからだ。


「あなたは何を誰に向けてどう発信したいのか?」

 

この問いは捉えようによっては、とても難しく重い問いかけだと思う。

そしてブログを書き続けることは、日々この問いを自分にぶつけ続けることだと思う。

 

こんな厳しい問いを何ヶ月を向き合い続けてみよう、そしたらその人の書く文章には必ず一本の筋が通るはずだ。

 

昨日お世話になった哲学カフェのゼミの教授は、自分が絶対的な正義の話をすると、

"私も絶対的な正義はあると思いますよ"といった。

本当ですか?と問いかける自分に

"正義とは何か?と問い続けることは絶対的な正義だと思うよ"

といった。

 

文章を書きたい人にとって、

「あなたは何を誰に向けてどう発信したいのか?」

と自らに問い続けることは、絶対的ともいえるかもしれない。

 

哲学カフェに参加してきた話

今日は哲学カフェというイベントに参加してきた。
大学のゼミ生が主体的に行なっている企画で、"哲学"といっても堅苦しいものでもなく、初心者・初参加者にとっても居心地の良い空間だった。
手法的にはダイアローグという対話の技法を使った討論だった。

 

ダイアローグというのは、もともと異なる意見を持った人々同士が対話で衝突を乗り越えていくために開発された列記とした方法で、 

ダイアローグ 対話する組織

ダイアローグ 対話する組織

 

ハウツーなどは、この本に詳しく載っている。
基本は、
・発言において参加者は皆立場が平等であること
・話者の話を折ったり、頭ごなしに否定しないこと
・なぜそう考えるのかを掘り下げていくこと
などをルールとして話し合っていくってもの。

話者はついつい話しすぎてしまうので、3分という制限をつけたり、話の割り込みを防ぐために(あるいは発言しやすくするため)トーキング・オブジェクトといって、話者が目印となるぬいぐるみなどを手に持って発言するルールを付け加えることもある。

 

今回は"正義"がテーマだった。
真っ白な大きなホワイトボードの中心に"正義"という2文字が書かれ、「"正義"ってどういうものだと思いますか?」「正義って良いこと?悪いこと?」といった感じでファシリテーターを中心に少しずつ掘り下げていく。参加者は思い思いの発言をし、別の参加者が質問したり反論したりする(否定ではない)。

 

初参加で哲学カフェ自体初めてだったけれど、とっても楽しかった。

アンパンマンは正義なのか?
キリスト教は正義なのか?
・正義は権力に過ぎないのか?

徐々に参加者の議論が白熱していく。

・正義は時と場所によって変わるのではないか?
・そもそも正義であることと、正義の味方であることは分けるべきなんじゃないのか?
・正義かどうかは、後々の評価によるのでは?であればその評価基準はなんだ?
・絶対的な正義は存在しないのか…?

 

気がつけば2時間はあっという間で、"もやもや"は宿題としてみんなが持ち帰ることに。

自分としては、
絶対的な正義は存在すると思う。
絶対的なというのは、時にも場所にも左右されない正義。
そしてそれは"人が生きようとすること"だと考える。
"人が生きようとすること"を相対的な正義だと判断してしまったら、それこそ状況次第で"あなたは生きてはいけません"と主張することができてしまう。
人の命が軽んじられる状況がどこかしらから生まれてしまう。
正当防衛だから、医療資源がないから、財政が枯渇しているから、死刑囚だから…
どんな条件があっても、"人が生きようとすること"自体を正義ではないと見做すことはできない、ゆえに自分は絶対的な正義として"人が生きようとすること"を提唱する。

 

もちろんこの考え方にも批判できるポイントは多々ある。
戦時中にこちらが攻めなければこちらが殺されるケースはどうなんだ?とか
人を特別視して、同じくらい知能の高いイルカやゾウ、チンパンジーらはどうなんだ?などなど。。

 

これらに対しても反論は用意しているけれど、今日はここまでにしよう。
読者はどう思うだろうか?

プラグマティズムにおける真理と民主主義

ああ、今日も日をまたぐギリギリになってしまった。
一つ一つの投稿をじっくり考察して書きたいけれど、まだコツを掴みきれていない。
先週は掴んだ気がしたけれど、悩み続けるといつまで経っても書く内容について悩み続けられてしまう。

 

もともとブログの更新は文章を書く力の底上げのため。
書く力は書かないと上がらないから、しっかり毎日書こうと思っている。
ただ、とりあえず乗り切るような書き方ではよくない。
書かないよりはマシだけれど、毎日毎日渾身の一記事を書いて、反省して、また全力投球してってのを繰り返した先に力がつく。
これは何事においても同じはずだ。
なぁなぁでやったところで力は中途半端にしか上がらない。
やらないよりはマシかもしれないが、やるからには全力でやったほうが良い。

 

…明日以降の教訓としよう。

 

今日はデューイを紹介しようと思う。
デューイはプラグマティズムを代表する哲学者。
プラグマティズムは日本では実用主義と訳される。
具体的に話すと、
近代までの西洋哲学者たちはずっと不変的な真実・真理・本質を追い求めていた。

プラトンは美しさの背景には美のイデアがあると考えた。
デカルトは全てを疑っても考えている自分が存在することは疑うことはできないという真理を見つけ出した。
カントは本質的に人は認識の世界から外へ出ることはできないことを鮮やかに証明し、客観的な世界を物自体と名付けた。

とまぁ、脈々と絶対的なものへの情熱が受け継がれてきたわけだけれど、
これらに共通するのは、どれも俯瞰的ってところなわけだ。
彼らは、真実・真理・本質といったものを外から俯瞰的に眺め分析し続けてきた。というより、絶対的なものとはそういうもんだと思っていた。

 

しかし、プラグマティストらは違う。
19世紀後半に入り、自然科学と人間の活動の距離が密接に結びついたこともあり、
真理とは俯瞰的に眺めてあーだこーだいうものではなく、
人間の活動の中で見つけ出されていくものなんじゃないか?実践的行為の中にこそあるもんなんじゃないか?って考える人たちが出てきた。
彼らがプラグマティスト。和名、実用主義者。
簡単に彼らの思想を説明すると「有用なら真実。真実なら有用。」と一言で片付けられてしまうけれど、それだと味気ないので簡単に背景を説明した。

 

彼らの源流となるのは、パース、ジェイムズ、デューイの三人だが、
個人的にデューイの思想は特に興味深い。

ちなみに彼は哲学者であるだけではなく、教育者としても活躍し、また1932年の合衆国大統領選挙では、フランクリン・ルーズベルトの陣営を支持し、ニューディール政策の思想的支柱となったという。

 

彼が打ち立てたことの功績の一つが、「仮説検証」の方法論なのである。

 

仮説検証といえば、もはやビジネスでは当たり前の方法論であるわけだけれど、デューイは哲学者として、その方法論を哲学的に裏付けた。

デューイは五段階で方法論を説明する。
①不確定状況を目の前にし、
②問題設定を行い、
③仮説を形成し、
④その帰結を演繹し、
⑤演繹結果をテストすることで仮説を検証する

 

演繹とは、抽象的命題から具体的ないし特殊事例を導き出すこと。


非常にシンプルだけれど、なぜこれが大事か。
哲学というものは非常に論理性を大事にする学問で、本来的に科学とは相性はいいものの、正直いって教育・宗教・道徳・ビジネスなどとは相性が悪い。"正解"がないからだ。

科学においては、真実・真理・本質といえるようなものを見出せるけれど、後者においてはなかなか難しい。後者は人々の主観的な考え=信念に基づいているという特徴があった。

そこへ、デューイが「科学的な検証方法」を、非科学的分野にも同じように使っていくことを提唱した。
この五段階のステップに沿って検証された仮説こそ、信頼できる信念であり、それこそ真理といっていいだろうと。この真理は絶対的で固定的なものではなく(そもそもプラグマティストは絶対的なものという捉え方自体を抜本的に否定する)、仮説検証を繰り返す中でアップデートされていくものだとした。


デューイはあらゆる非科学的分野における真理探究の方法を基礎づけたといえる。

この仮説検証の方法論は社会のルールや道徳にも応用し、それらも実験を通じて議論され、検証されるという。
そして、
デューイはこうした社会という舞台において展開される仮説検証のスタイルを「民主主義」と名付けたのだ。
哲学だけでなく、教育や政治など、あらゆる分野に精通した知識人としての見解にお見事と唸らされる。