プラグマティズムにおける真理と民主主義

ああ、今日も日をまたぐギリギリになってしまった。
一つ一つの投稿をじっくり考察して書きたいけれど、まだコツを掴みきれていない。
先週は掴んだ気がしたけれど、悩み続けるといつまで経っても書く内容について悩み続けられてしまう。

 

もともとブログの更新は文章を書く力の底上げのため。
書く力は書かないと上がらないから、しっかり毎日書こうと思っている。
ただ、とりあえず乗り切るような書き方ではよくない。
書かないよりはマシだけれど、毎日毎日渾身の一記事を書いて、反省して、また全力投球してってのを繰り返した先に力がつく。
これは何事においても同じはずだ。
なぁなぁでやったところで力は中途半端にしか上がらない。
やらないよりはマシかもしれないが、やるからには全力でやったほうが良い。

 

…明日以降の教訓としよう。

 

今日はデューイを紹介しようと思う。
デューイはプラグマティズムを代表する哲学者。
プラグマティズムは日本では実用主義と訳される。
具体的に話すと、
近代までの西洋哲学者たちはずっと不変的な真実・真理・本質を追い求めていた。

プラトンは美しさの背景には美のイデアがあると考えた。
デカルトは全てを疑っても考えている自分が存在することは疑うことはできないという真理を見つけ出した。
カントは本質的に人は認識の世界から外へ出ることはできないことを鮮やかに証明し、客観的な世界を物自体と名付けた。

とまぁ、脈々と絶対的なものへの情熱が受け継がれてきたわけだけれど、
これらに共通するのは、どれも俯瞰的ってところなわけだ。
彼らは、真実・真理・本質といったものを外から俯瞰的に眺め分析し続けてきた。というより、絶対的なものとはそういうもんだと思っていた。

 

しかし、プラグマティストらは違う。
19世紀後半に入り、自然科学と人間の活動の距離が密接に結びついたこともあり、
真理とは俯瞰的に眺めてあーだこーだいうものではなく、
人間の活動の中で見つけ出されていくものなんじゃないか?実践的行為の中にこそあるもんなんじゃないか?って考える人たちが出てきた。
彼らがプラグマティスト。和名、実用主義者。
簡単に彼らの思想を説明すると「有用なら真実。真実なら有用。」と一言で片付けられてしまうけれど、それだと味気ないので簡単に背景を説明した。

 

彼らの源流となるのは、パース、ジェイムズ、デューイの三人だが、
個人的にデューイの思想は特に興味深い。

ちなみに彼は哲学者であるだけではなく、教育者としても活躍し、また1932年の合衆国大統領選挙では、フランクリン・ルーズベルトの陣営を支持し、ニューディール政策の思想的支柱となったという。

 

彼が打ち立てたことの功績の一つが、「仮説検証」の方法論なのである。

 

仮説検証といえば、もはやビジネスでは当たり前の方法論であるわけだけれど、デューイは哲学者として、その方法論を哲学的に裏付けた。

デューイは五段階で方法論を説明する。
①不確定状況を目の前にし、
②問題設定を行い、
③仮説を形成し、
④その帰結を演繹し、
⑤演繹結果をテストすることで仮説を検証する

 

演繹とは、抽象的命題から具体的ないし特殊事例を導き出すこと。


非常にシンプルだけれど、なぜこれが大事か。
哲学というものは非常に論理性を大事にする学問で、本来的に科学とは相性はいいものの、正直いって教育・宗教・道徳・ビジネスなどとは相性が悪い。"正解"がないからだ。

科学においては、真実・真理・本質といえるようなものを見出せるけれど、後者においてはなかなか難しい。後者は人々の主観的な考え=信念に基づいているという特徴があった。

そこへ、デューイが「科学的な検証方法」を、非科学的分野にも同じように使っていくことを提唱した。
この五段階のステップに沿って検証された仮説こそ、信頼できる信念であり、それこそ真理といっていいだろうと。この真理は絶対的で固定的なものではなく(そもそもプラグマティストは絶対的なものという捉え方自体を抜本的に否定する)、仮説検証を繰り返す中でアップデートされていくものだとした。


デューイはあらゆる非科学的分野における真理探究の方法を基礎づけたといえる。

この仮説検証の方法論は社会のルールや道徳にも応用し、それらも実験を通じて議論され、検証されるという。
そして、
デューイはこうした社会という舞台において展開される仮説検証のスタイルを「民主主義」と名付けたのだ。
哲学だけでなく、教育や政治など、あらゆる分野に精通した知識人としての見解にお見事と唸らされる。

人生とは償いである

アメフト事件の会見(内田監督・井上コーチの方)を途中までYoutubeのLive ストリーミングで見てて、今回の事件は不幸の連鎖だなと感じた。
どうしてこんな大ごとになるぐらい危機管理がなってないのだろうと訝しんでいたけれど、その理由はシンプルに彼らが犯した罪に無自覚だったからだ。


内田監督の諸々の対応が遅延し、加えて非常に雑だったのは、宮川選手への指示出しは基本的に井上コーチが行なっていたからだ。
内田監督と宮川選手間にコミュニケーションはほとんどなく、彼は宮川選手の心理状態を全く把握していなかった。
試合中に一度目の反則が起こった時も、ボールの行方に目が行ってしまい、何が起こったのか理解していなかった。
その時は、うっかり強く当たりすぎて反則取られてしまった、よくあることだと思っていたのだろう。
実際、後日動画を見て初めてラフ・プレーの全貌を知ったという。

一方、井上コーチは常日頃から宮川選手の素質を買っていた。
彼がとても優秀な選手であることを認めている一方で、彼が彼自身の優しさのために十分に力を発揮できていないと感じていた。それゆえに、彼の闘争心をもっと引き出すために、過激な発破をかけた。

 

事情はわかった。

ただ、彼らの会見は総じて弁明に終始していた。
過激な言葉を散々浴びせかけたことは事実だと認めた上で、
"ルールの上でって前提がある"とか"彼の成長を思ってだった"とか、記者の厳しい指摘に対し「そんなつもりじゃなかったんだ」という苦しい弁明がだらだらと続いていた。
思い違いがあったことばかりを強調し、"思い違いがあったことを踏まえて選手を守ろう"という意志・覚悟は正直感じられなかった。

彼らが宮川選手の成長と活躍を願って圧力かけた…その思いに間違いはないんだろうなと思う。
ただ、指導の一環としてのパワハラが、どれだけ彼を追い詰めていたかに彼らは気付けていなかったのだ。


言ったとか言っていないとか、解釈の違いだとか、そういった言葉の真実がどうあれ、彼らの行き過ぎた指導が彼を精神的に追い込んだこと、その事実は変わらない。
"見えていなかった"ことが罪深い。
指導者として、教育者として、上に立つものとして失格だと思う。

会見を見ていて、彼らが残酷で非情な人とは思えなかった。
ただ、もう事は起こってしまった。それはもう取り返しのつかないほどに進展している。
彼らに残された道は、できる限りの償いをしていくことぐらいだろう。

 

一次情報って大事だなって思う。
会見を動画で直接見なければ、監督も井上コーチも非道な鬼畜野郎だと思い込んでしまいかねない。
それぐらい、今の世論は反日大へ傾いているし、ネット上では正義が暴走し、さながらリンチ状態になっている。
彼らは確かに事の重大さに気づくのが遅れた愚かな人たちだった。
メディアの動きを軽視し、許されるだろうと社会に甘えた。
しかし問題は、むしろ彼らではなくて構造的なものに思う。

パワハラを生み出す強力な上下関係に、軍やヤクザの世界を連想した人も多々いるはずだ。スポーツの闇だと表現した人もいた。
そしてメディアの露骨な態度。宮川選手への配慮の欠けるドアップは、偽善感極まりなかった。
何よりもネットで加熱し続ける反日大の大合唱。今、日大の事務は日本中から何百という苦情が寄せられているという。


これらに違和感を感じる。
自分には今回の日大の監督・コーチも、そのかげでこっそり辞任を決めた狛江市長のセクハラ事件も、"悪気を感じられなかった"。
自分はこの気配には敏感だからある程度確信を持てる。
彼らは自分が悪いことをしたという自覚が当初なかった。
だから、信じられなかったのだ。

人は基本指摘されない限り罪な行為に自覚的にはなれない。
そして、賢明な人ほど自分の犯した失敗に自覚的になる。
本当はみんな無自覚のうちに誰かを傷つけているし、逆に誰かを勇気づけていることもある。
だからこそ、指摘された時は謙虚に耳を傾ける方が良い。感謝されたなら素直に自信を持っていい。
十中八九"いままで指摘されなかっただけ"なんだ。


この考えを押し進めると、人って常に罪を量産していることになる。
実際に、その通りなんだと思う。

自分はキリスト教信者ではないけれど、この話は好きだ。

ある時、女が姦通しているところを現場で取り押さえられる。ユダヤ人は姦通を禁止しているため、周りのユダヤ人はモーセの律法に従い女を石で打ち殺そうとする。そこへイエスが介入する。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 ユダヤ人は一人また一人と、立ち去っていった。(ヨハネによる福音書より)

人生とは償いである。


今回罪を犯してしまった一人一人が償いの人生を歩むことを望む。

 

心のささくれ

最近は哀しくなるニュースが多い。
そもそもニュースって基本的に悪いことが多いから、心がダメージを受けやすいけれど、ここ数日のニュースは特にその傾向が強い。
日大アメフト部の事件も、東京都狛江市市長のセクハラも、うんざりしてしまう。
うんざりして、Twitterに色々投稿して、ふと自分の心を振り返ってみると心が波風立てているのがわかる。

そういえば、はあちゅうは"いらだち"の感情を大事にするといい的なアドバイスをしていた。
自分がどんな情報に対してどう反応するのかに注目すれば、自分の心のことがより理解できる。
今日はニュースに反応した自分の心について。

 

冷静で棘のない発信を心がけたい

憤りを覚えるようなニュースを見ると、どうしても感情的になる。
加えて、いろんな人が攻撃的な意見を寄せていたりしてて、なまじ共感できるフレーズをたくさん目にすると、自分の心も攻撃的になってトゲトゲしてくる。
心がささくれてくる。ざらついてくる。言葉選びが雑になる。
そんな人のコメントを読みたいとは思わないだろう。
そんな時のためも、いつ何時も、自分がどんな立場から発信したいのかを見直したいと思った。

 

美しく誠実でありたい

ニーチェは誠実や優しさを美徳とするのは、ルサンチマンからくる転倒だ!って批判してるけれど…
やはり自分は誠実なあり方がかっこいいと思うし、美しいと思う。

アレクサンドロス大王の言葉に「私は生きることをフィリッポス(父)に、美しく生きることをアリストテレスに学んだ」というのがあるけれど、自らの道徳哲学を実践する人に憧れる。


権力にしがみついているのは醜いし、かっこ悪いと思う。
だから、肩書きや自分のちっぽけなプライドをいつでも捨てれるようにしておきたい。
誠意を持って物事に対応できる人でありたい。
大切なものを見抜ける聡明さと、権力や虚栄心に負けない強さと、全てを失ってもやり直せる強さを持ち続けたい。

 



正しいことをしたって、報われるわけじゃないけれど。
正直者がバカをみることの方がよっぽど多いけれど。
そっちの方がかっこいいんだって突き進みたい。
「笑われて行こうじゃねーか!」って引っ張っていける強さを持っていきたい。

 

f(t)=g(t,x,y,z,...)

未来を予測することって可能だろうか。
きっとほとんどの人は未来のことは予想できないと思っている。
実際そうなんだろうけれど…一方である程度予測できるんじゃないかって思う。

 

予測できるとしたら、マクロとミクロの両方だろうと思う。
マクロってのは国とか社会とかがどういう方向性で動いていくかっていうレベル。
ミクロってのは個人がどういう方向性で動いていくかっていうレベル。

 

マクロにせよ、ミクロにせよ、仮に未来の方向性が決められるとしたら、その変数はなんなんだろう。
マクロなら、時間・人口・政策・国外の情勢・テクノロジー・文化…
ミクロなら、時間(年齢)・身体・コミュニティ・性格…

 

少し書き出してみると、若干傾向がわかってくる。
まずは時間が基盤になっているということ。また時間によって変数の影響力が変わっていること。
そして、変化のスピードが速いものと変化のスピードが緩やかなものがあること
そもそも、多元的に規定されるということ。ここに挙がっているのはその中で目立っている因子に過ぎない。

 

今は思いつきで書いているから考察の深さがないけれど、
歴史を辿りつつ仮説検証したり、この要素が決まればこの人って言える因子、この要素が決まればこの社会って言える因子をあぶり出せば、変数はある程度ピックアップできそうだ。

 

そして、変数があるということは、未来を関数:f(t)とおけば、

f(t)=g(t,x,y,z,...)と表せるはず。

 
ふむ。もう少し考察しがいがありそうだ。

特定のテーマについて考えを進めること

またまた考えるシリーズ。
考えるっていっても、考えるテーマは正直生きてりゃいくらでもでてくる。
人間関係について、仕事について、趣味について、家事について、自分のライフプランについてetc...
どれもこれも重要なことなんだけれど、1日の時間は24時間しかないから、必然的に自分が今何について考えるのかを絞っていかないといけない。
加えて、筋よく要領よく効率よく考え事を進めていかなくちゃいけない。

 

そうでないと、
どれもこれも思いつきで物事を進めることになってしまうかもしれない。
芯のない行動原理になってしまうかもしれない。
強い意見に流されてしまうかもしれない。
あなたの意見を聞かせてよ、言われても答えられないかもしれない。
不測の事態に柔軟に対処できなくなってしまうかもしれない。

 

前に考え事には、思いつきの段階と、思索の段階がある的な話をした。

rassy.hatenablog.com


考えるためには、まずは思いつかないといけない。
思いつくためには、考えたいテーマについて思いつきやすい環境を作らないといけない。
そのためにはどうすればいいか。
考えたいテーマの刺激が入ってくる環境に身をおけばいい。


例えば、仕事について色々考え事を進めたい場合。
シンプルな話、仕事に関係にある場所に身をおけばいい。
逆に言えば、仕事と無関係の要素が多分にある環境では、あまり思いつきは多くない。
なぜかって、仕事と無関係の刺激によって、仕事と無関係の思いつきが相対的に多くなってしまうから。
仕事仲間で飲みにいくでもいいし、仕事に関連する勉強会に参加してみるのもいいし、仕事に関わる本を読んでみるのもいいと思う。
関連する刺激を与えれば、何かしら人の脳は反応する。

 

個人的に本はとても良い。
本は別の誰かが、積み上げた思索。それなりの結論を出すまでの筋道がしっかりしている。
自分が悩んでいるテーマがあれば、それと同じことを論じている本を買ってみる。
何事も一から全て自分で考えるのは難しいから、他人の本を叩き台にしながら、著者への同意や反論を自分の中で育てていく。

ただ、盲点として、インプットばかりになると考え事は進まない。
インプットの方に頭の処理能力の大部分が消費されてしまうからだ。

ちょっと読んだら、ぼーっと休憩しつつ内容を反芻したり、
あるいは、
同意できるところ・反論があるところ・もやっとしたところに印をつけておいて、立ち戻ってぐるぐる考えてみるってのがいいと思う。

 

思いつきが増えていったら、あとは論理式で結びつけて、思索に練り上げればいい。

rassy.hatenablog.com


こうして思考を一歩一歩前へ進めていけるはず。