ブログは文章を書く練習台

このブログは文章を書く練習のためにやっている。

あらゆるスキルの習得において一番基本となるのは継続であり、その近道が習慣づけだから。


トレーニングが日常の一部となった人は強い。

呼吸をするように毎日走る人、勉強する人、ピアノを弾く人…
彼ら彼女らはきっと自分では頑張っている・努力している意識はそこまでないのかもしれない。

でも毎朝走っている人は、そうでない人より中高年になっても元気で若々しいだろうし、
1日の中にたった数十分でも教養を深めビジネスに役立てようとインプットとアウトプットを繰り返している人は、そうでない人より間違いなく優秀な成績を収めるだろう。


昔呟いたことだけれど、インターネットによって全ての個人が情報発信をすることができるようになった今、個人単位の思考や創り出したものが、何万何億の価値を生み出す可能性を秘めている。

YoutuberやInstagramerが流行と宣伝において強い影響力を持っているのはその証明だし、Twitter発の小説家なんて戦前の文壇が聞いたら卒倒するだろう。

私自身はピアノは弾けないし、歌も歌えない。
今からYoutuberなんて目指しても、星の数ほどある動画の最底辺に埋もれるだけだろう。Instagramみたいなキラキラした世界とも縁はない。


文才は?

自分が一番わかっている。

そんなものはない。

持てるのなら持って生まれたかった。

江國香織のような透明感のある描写力で繊細に本を書きたかったし、
平野啓一郎のように学生の間に賞を取ってしまうようなすごい人になりたかった。

だが残念ながらそんな才能は自分にはなかった。

それでも文章は書きたいと思うし、文章力さえあれば、今の時代より生きやすくなるのは間違いない。
別に作家にならなくとも、何らかの問題意識を抱えたときに、その力を人や社会に訴えかけることに使うことができる。

自分の将来設計の上で、文才は必須だと思った。

だったら血の滲むような努力をしないといけない。

とりあえずは数日は書き続けることができている。
書き続けることを自分に強いて、覚悟を据えると、日々色々気づくことがある。
毎日よりよく書くために、やり方が洗練されていくし、
何より情報の収集の際に、文章を読む姿勢が変わった。
文章は考えないと書けないから、嫌でも考えるようになった。

また、意地でも継続することは、他の習慣を守ることにも繋がっている気がする。
ブログを更新することを止めないためには、他の生活を破綻させるわけにはいかないから。

アウトプットを続けるためにはインプットも続けないといけない。
毎日60分でも120分でもじっくり本を読む時間を取り続けたいと思う。

 

こちらははあちゅうさんの本。

本当にすごい。壮絶な経験から這い上がって邁進していく姿勢に共感と敬意しかない。
頑張っている人はそれだけで人を勇気付ける。 

半径5メートルの野望 完全版 (講談社文庫)

半径5メートルの野望 完全版 (講談社文庫)

 

 

休学について

もう長いこと休学について悩んできた。

はじめに休学という選択肢が頭をよぎったのは、大学2年生の頃だったと思う。
当時私は医学部以外の人から、学生でない人まで幅広く人に会って刺激を受けていた。
自分の知らない世界がたくさんあることを知って、それらをより深くクリアに考察するためには、ゆっくり時間を取ることが必要だと感じていた。

本を読むことと英語を克服することの重要性を痛感していた。
世界史や人類学や社会学、心理学や哲学の本を片っ端から読みたいと思っていたし、
英語を使って世界中の人と議論をしたいと思っていた。

結局休学はしなかった。

それは"何をするため?"という質問に最後まで答えられなかったのだ。

本を読むため、留学をするため、現場を知るため、それらでは休学をするには理由は十分ではなかった。
本を読むことも留学をすることも現場を知ることも、学生生活を送りながらやろうと思えばできるはずのことだったから。
できるのにしないのだとしたら、それはただ自分の努力が足りないことになる。

私は踏ん切りがつかずに諦めた。

それで良かったのかどうかはわからない。
もしあの頃に休学に踏切り、海外で数ヶ月過ごし、英語を克服し、浴びるように読書をしていたら、今の自分にはない可能性が拓けていたかもしれない。

でも同時に、あの頃の自分は、自身の経験を体系化して血肉としていく力は不十分であったから、そんな状態では世界を見て聞きしても、知ったことの多くは人生の糧にならずに泡になって消えたことだろう。

私は学生を続けることにし、今に至る。

そして、長年の休学への願いは、卒業後に1年間働くことなく放浪することで叶えることにした。
マッチングはしていない。
皆がESを書き、マッチング試験対策にいそしむ中、私は家で本を読み漁っていた。

「1年間何をするの?」とよく聞かれるけれど、実のところ私は1年間特に何をするか決めていない。

決める必要はないと思ったのだ。

自分の中で、医者になる前の20代前半に自由な1年間を設けた人生と、そのままエスカレーターのように医者になってキャリアを築く人生を比較した時、圧倒的に前者が魅力的に感じ、後者の道を選んだ場合一生後悔することがわかりきっていた。

だから、前者の道を選ぶことに迷いは全くなかった。

その時何をするかはその時決める。

やることは特別決めていないが、やりたいことは山のようにある。

数年前と比べて良いのは、自分の人生かけて関わりたいテーマがはっきりしていること、知識や経験の体系化ができるようになったこと、世の中の仕組みに詳しくなったことだろう。

これらの基盤がしっかりしていれば、どこにでも立ち向かえると思った。
どんな経験をしたって、それを無駄にすることはもうないと思った。

休学はしたいならすればいいと思う。
いや、できるならすればいいと思う。
国公立の大学であれば、学期の切れ目に注意すれば、学費もかからずに籍を置いたまま、休学することができる場合が多いはずだ。

たとえ思いっきり無駄にしたかのように思えても、人と異なる経験をしたことは、確実に財産になる。
人生初期の1年,2年の遠回りに無駄なことなんて何一つない。

休学をして初めてやりたいことが見つかることもあるだろうとも思う。
未来が不透明なこの時代に、ストレートで社会人になることもリスキーだとも言える。

正解はない。
後悔しない選択をし続ければうまくいくと思っている。

寂しさについて

寂しさはこの世で一番厄介な病だと思う。

生身の人間一人では絶対に解決できない問題だからかもしれない。


幸いにも自分は寂しさには耐えられるタイプの人間だったため、寂しさでしんどい思いをすることは少ない。
それにはきっと二つの理由がある。

子供のころ、僕は家族に愛されていたと同時に孤独だった。
家族は自分を愛してくれていた。それを自分は疑ってはいない。
家族は僕の居場所であれた。

一方で、僕は中高生のころ、人と深く関わるということを避けてきた。
中学の時の嫌な経験や兄弟との確執が原因で、心を閉じ込め、他者と一線を引いた生活を送っていた。

僕は愛されていたけれど、一人だった。

だからかもしれない。
一人でいることが寂しいという感覚は自分にはあまりない。
ずっとそうだったから。

 

「寂しくなってしまう」と相談されて、そうかと思う。
そう感じてしまう人は2タイプいるだろう。

一つは愛に囲まれて生きてきた人たち。
もう一つは、愛されて来なかった人たち。

前者は問題はない。でも、後者はなかなか大変だ。
彼ら彼女らは、心のどこかで自分は愛されるような人間ではないと自分自身で思い込んでいる。

それゆえに他人の愛情を信じられなかったりする。

そこに広がるのは底のない沼のような…与えても与えても塞がらない穴がひたすらに広がっているような…そんな感じがしてくる。

自分を愛せない子供を育ててしまった、親も教育も社会も全て罪深い。

洗練と本質

夏の甲子園で大会通算ホームラン記録11年ぶりに更新したらしい。

藤井4段の連勝記録の歴史的更新の時もそうだったけれど、過去の記録を塗り替えたって聞くとなんだかワクワクする。

まだ見ぬ世界を切り開いて連れて行ってくれるような気がして、フロンティア精神をくすぐられるのかもしれない。



 

最近は時代の変化ってものを強く意識するようになった。

時代は移り変わるもので、今、この現在も変化の途中にあるんだと。

 

当たり前のことに聞こえるかもしれない。

でも僕は心のどこかで、この平成の時代と、昭和以前の時代とが結びついてなかった。

まるで平成という時代がいきなり始まったかのような印象を感じていた。

あらゆるものが、時代が平成に突入する段階で、すでに一度完成していたかのような…そんなイメージを持っていた。

 

でも違う。

あらゆるものは時代と共に変化していっている。

社会もそうだし、スポーツの記録もそう。文化だって。

 


洗練されるものと洗練されないものの違いはどこにあるのだろう。

きっと今の甲子園優勝チームと、昭和時代の甲子園優勝チームで勝負をさせたら、今のチームが勝利するんじゃないかな。

スポーツについては、練習方法が体系的なデータの積み重ねによって改善され、戦略が新しく編み出され、栄養状態の良い子供と医学的に正しいトレーニングは筋力を高めたことだろう。

 

きっと昔より、あらゆる面で現代の方が洗練されているはずだ。

文化系はどうだろう。明らかに漫画の質は上がっている。

シンプルな戦隊モノや戦闘ものよりも、深い哲学性や社会風刺、複雑で鋭い心理描写が好まれ、漫画はもはや大衆娯楽で括られるレベルをとうに超えている。一つの表現技法として、日本が世界に誇る文化となっている。

 

一方で、俳句は最盛期に比べると寂しくなっている。きっとこの違いは作家の人数が減少傾向だからだろう。漫画は大衆娯楽性とも合間って、読者も、漫画家を志す人も爆発的に増えた。だから体系化と技術の蓄積が進み、急速に洗練されていった。

 

相撲や囲碁も減少傾向にあるはず。少子高齢化で後継者が減り、また現代は流行の新陳代謝が激しい。趣味の細分化・多様化と合間って、一度減り始めた分野はなかなか人の獲得は難しい。

ネットワーク効果もあるのかもしれない。

 

でも相撲は国技として国が支えていく側面があるし、

囲碁や将棋はネットを通して、至る所でできるようになった。

文章を書くということは、誰にでもできるが故に大衆性と深く結びつくけれど、その分可能性を持っていて、僕はそこに新しい俳句の可能性があっていいと思う。

Twitterは140字で思いを綴るツールであるけれど、日本人がTwitterを活用するのは、短い文章でできる限り広い世界を伝えることに造詣が深いことの象徴だろう。

 

価値あるものは、本質が受け継がれ残っていく。

それまたよろずに通じる真実かもしれない。