変革する力を持つ人たちの責任

今日は社会の変革について。
いきなり何やら危険で胡散臭い言葉を書き出してしまって申し訳ない。
自分は世の中がより良い方向に向かう条件について普段から考えていて、その一つの条件を考えてみたので書き出そうと思ったのだ。

 

世界の歴史を紐解いてみて、また自分のわずか25年間の人生経験と照らし合わせてみて、一つ言えること。

それは、

『変革する力がない人が理不尽に虐げられているケースは、変革されない』

いきなり元も子もないことを言ってしまった。
これは裏を返してみると、

『変革する力を持つ人が理不尽に虐げられているケースは、変わりうる』

 

世界史的には、典型的なケースがいくつかあって、
一つは古代ギリシアの民主政治の発展。
元々は一部の貴族しか持っていなかった選挙権が、一般市民の戦争での活躍などを通して徐々に拡大していった。

二つは有名なフランス革命
これは典型的なブルジョアジーによる革命だった。

三つはアメリカ独立革命。

この三者に共通するのは、もともと被支配層だった人たちが徐々に力をつけていったということ。力ってのは変革に繋がるものならなんでも含む。法律家になった人が増えたとか、経済力をつけたとか、民衆の信頼を得るようになったとか。

 

そして力をつけていったところで、既存の支配・被支配関係に矛盾が生じる。
すると、彼らはこの社会構造は間違っていると思ったときに、実際的な行動を起こすようになる。
彼らには蓄積された力があるから、多くの人を巻き込むことができたり、経済的に圧力をかけることができたり、法律に訴えたりすることができた。

ここで話を変える。

マルクスは、プロレタリアートが団結することによって革命が起きるとしたけれど、実際にそうだったろうか?
確かに、ソ連をはじめいくつかの社会主義国家が、革命を経て誕生した。
でも自分はこれらはプロレタリアートの団結によって成し遂げられた訳ではないと思う。
一つ、プロレタリアートは力がないために変革する力を持たなかったから。
二つ、彼らの願いは社会主義国家ではなく、いまより豊かな暮らし、ただそれだけだった。その願いを叶えてくれそうな政治家として、革命家に賭けただけだった。
三つ、結局のところ、力を持っていたのはプロレタリアートではなく、民衆の信頼を獲得した政治家だったにすぎない。

本当の意味で民衆が力を得たわけではなかった。それゆえに支配・被支配関係は継続した。民衆の生活は豊かになるどころか、さらにひどい権力ゲームが生まれ、ソ連ではスターリニズムが引き起こされた。

 

変革する力を持った人が理不尽に虐げられている場合は、社会に変革は起こりうる。
この例は現代社会にもいくつか当てはまる。
一つは女性の社会進出。昔は女性は投票権も、教育を受ける権利も、仕事をする権利も奪われていた。それがいまでは男女平等が当然の価値観の社会になった。
この変化自体も、本来的に女性が男性と変わらず力を持った存在だったからこそ起こった変化だとも捉えられるし、女性が社会進出すればさらに彼女らは変革する力を身につけることになる。そのことによって社会変革はもっと加速していったとみれる。

 

LGBTの人たちにも同じことが言えると思う。
彼ら彼女らを取り巻く環境は、まだこれから変わっていく段階にあるわけだけれど、彼ら彼女らの中には、かつてのユダヤ人のように非常に才覚に溢れた人たちがたくさんいる。弁護士になった人、医者になった人、何よりテレビに登壇するインフルエンサーがわんさかいる。
彼ら彼女らはどんどん力を積み上げ、影響力を蓄積している。
将来はLGBTの人たちにとって明るい。それは間違いない。

 

#MeTooの運動も、インフルエンサーと呼ばれる力を持った人たちが動いているから、爆発的な運動になる。
現代のIT技術の発展はこうした動きを後押ししている。

 

だがしかし、冒頭の命題に戻る。
『変革する力がない人が理不尽に虐げられているケースは、変革されない』
現代において力のない人たちはどんな人たちだろうか?

彼らは経済力もなく、教育の機会にも恵まれず、人的ネットワークにも恵まれず、信頼も薄い。ITにも疎ければ、インフルエンサーどころじゃないだろう。
現代で変革の力と考えられるような力を奪われている人たちはどこにいるだろうか?
一歩立ち止まって考えてみてほしい。

 

大事なのは、彼ら彼女らが存在したとして、彼ら彼女らの状況は一向に変わらないという残酷な現実が待ち受けているということ。
なぜなら、シンプルな話、変革するための力を持っていないからだ。
マルクスプロレタリアートは団結しざるを得ない状況においこまれ団結するといったが、自分が指摘する人たちは、この現代のネットワークから取り残され、資本主義によって分断され押しとどめられている。


最後、だからこそだ。
力を持つ人の役割は、そんな人たちの分も変革のための活動をしなくてはならない。
それが力を持つ人の役割であり、責任なのだと自分は考える。