らっしーの日本語の練習場

らっしーがぐだぐだ綴ります

自信と強制と肯定と

※かなり読みづらく書いてます。

 

自信。

 

舞台にいる限り、たとえ根拠がなくても私たちは自分を信じなければならない。
嘘でも自信を持たなければ、挑戦することもできないのだから。

 

根拠ない自信を持つことへの抵抗感。
それはきっと…

自信を持ってしまえば、そもそも自分が戦場にいること自体が間違いであることを疑うことができなくなるから。

 

 

いったいあの時間に何の意味があったのだろうか。

どこを振り返っても、後になって意味を見出そうとしても、少なくとも今の私にとっては無意味としか思えなかった。

真剣に楽しくやっていた仲間には申し訳ないが、残念ながら私にとってあの時間は苦痛でしかなかった。

忍耐の時間であり、復讐の機会を淡々と狙う場であり、生気を抜きとられた日々であった。

意味がわからなかった。

楽しそうにそれをする人たちのことが理解できなかった。

何を話しているのかさっぱりだった。

どうして朝も昼も夜もそれをしたがるのかわからなかった。


 

きっと、もっと純粋に楽しむ時間を設けるべきだったのだろう。

何をしても褒められる環境のもとそれを始めればよかったのかもしれない。

いきなり競争の中に投げ込まれたが故に、それ自体を楽しむ余裕なんてなかったのだ。

毎日が必死で、戦場だった。

その狭い社会で生き抜くので精一杯だった。

 

 

続ける中で楽しみを見出すことができるのは限られた人たちだけだと思う。

その他大勢の才能がない人たち ー頑張りたいととは思っていても努力できない人たちを含むー は、することを強いられるものに対して、楽しみを見出すことなどできない。

これは強制の負の側面だ。

 

私は少なくとも…勉強においては才能があった。

私は学ぶことは苦ではない。純粋に楽しい。

医学だけじゃない、あらゆる分野の知識を貪欲に得ることは、面白くて寝る間も惜しんで没頭することすらある。学んだ知識が結びついていく瞬間には心が踊る。

でも、多くの人は勉強は嫌いだ。宿題や期末試験に良い思い出などないだろう。
学校や塾といった強制的な学習の先に、楽しみを見出すことができたのは、小学校のときから学びが自己肯定と結びついていたからかもしれない。

 

私にとって、それは軍隊だった。

理不尽に耐え、より強い心と強い肉体を育てることだった。

いつまでもその場にいることに自信が持てず、続ける意味を見出せないまま惰性で続け、自主的に求められる以上のことはしなかった。

 

私はそれを最初から最後まで好きになることできなかった。