人生とは償いである

アメフト事件の会見(内田監督・井上コーチの方)を途中までYoutubeのLive ストリーミングで見てて、今回の事件は不幸の連鎖だなと感じた。
どうしてこんな大ごとになるぐらい危機管理がなってないのだろうと訝しんでいたけれど、その理由はシンプルに彼らが犯した罪に無自覚だったからだ。


内田監督の諸々の対応が遅延し、加えて非常に雑だったのは、宮川選手への指示出しは基本的に井上コーチが行なっていたからだ。
内田監督と宮川選手間にコミュニケーションはほとんどなく、彼は宮川選手の心理状態を全く把握していなかった。
試合中に一度目の反則が起こった時も、ボールの行方に目が行ってしまい、何が起こったのか理解していなかった。
その時は、うっかり強く当たりすぎて反則取られてしまった、よくあることだと思っていたのだろう。
実際、後日動画を見て初めてラフ・プレーの全貌を知ったという。

一方、井上コーチは常日頃から宮川選手の素質を買っていた。
彼がとても優秀な選手であることを認めている一方で、彼が彼自身の優しさのために十分に力を発揮できていないと感じていた。それゆえに、彼の闘争心をもっと引き出すために、過激な発破をかけた。

 

事情はわかった。

ただ、彼らの会見は総じて弁明に終始していた。
過激な言葉を散々浴びせかけたことは事実だと認めた上で、
"ルールの上でって前提がある"とか"彼の成長を思ってだった"とか、記者の厳しい指摘に対し「そんなつもりじゃなかったんだ」という苦しい弁明がだらだらと続いていた。
思い違いがあったことばかりを強調し、"思い違いがあったことを踏まえて選手を守ろう"という意志・覚悟は正直感じられなかった。

彼らが宮川選手の成長と活躍を願って圧力かけた…その思いに間違いはないんだろうなと思う。
ただ、指導の一環としてのパワハラが、どれだけ彼を追い詰めていたかに彼らは気付けていなかったのだ。


言ったとか言っていないとか、解釈の違いだとか、そういった言葉の真実がどうあれ、彼らの行き過ぎた指導が彼を精神的に追い込んだこと、その事実は変わらない。
"見えていなかった"ことが罪深い。
指導者として、教育者として、上に立つものとして失格だと思う。

会見を見ていて、彼らが残酷で非情な人とは思えなかった。
ただ、もう事は起こってしまった。それはもう取り返しのつかないほどに進展している。
彼らに残された道は、できる限りの償いをしていくことぐらいだろう。

 

一次情報って大事だなって思う。
会見を動画で直接見なければ、監督も井上コーチも非道な鬼畜野郎だと思い込んでしまいかねない。
それぐらい、今の世論は反日大へ傾いているし、ネット上では正義が暴走し、さながらリンチ状態になっている。
彼らは確かに事の重大さに気づくのが遅れた愚かな人たちだった。
メディアの動きを軽視し、許されるだろうと社会に甘えた。
しかし問題は、むしろ彼らではなくて構造的なものに思う。

パワハラを生み出す強力な上下関係に、軍やヤクザの世界を連想した人も多々いるはずだ。スポーツの闇だと表現した人もいた。
そしてメディアの露骨な態度。宮川選手への配慮の欠けるドアップは、偽善感極まりなかった。
何よりもネットで加熱し続ける反日大の大合唱。今、日大の事務は日本中から何百という苦情が寄せられているという。


これらに違和感を感じる。
自分には今回の日大の監督・コーチも、そのかげでこっそり辞任を決めた狛江市長のセクハラ事件も、"悪気を感じられなかった"。
自分はこの気配には敏感だからある程度確信を持てる。
彼らは自分が悪いことをしたという自覚が当初なかった。
だから、信じられなかったのだ。

人は基本指摘されない限り罪な行為に自覚的にはなれない。
そして、賢明な人ほど自分の犯した失敗に自覚的になる。
本当はみんな無自覚のうちに誰かを傷つけているし、逆に誰かを勇気づけていることもある。
だからこそ、指摘された時は謙虚に耳を傾ける方が良い。感謝されたなら素直に自信を持っていい。
十中八九"いままで指摘されなかっただけ"なんだ。


この考えを押し進めると、人って常に罪を量産していることになる。
実際に、その通りなんだと思う。

自分はキリスト教信者ではないけれど、この話は好きだ。

ある時、女が姦通しているところを現場で取り押さえられる。ユダヤ人は姦通を禁止しているため、周りのユダヤ人はモーセの律法に従い女を石で打ち殺そうとする。そこへイエスが介入する。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 ユダヤ人は一人また一人と、立ち去っていった。(ヨハネによる福音書より)

人生とは償いである。


今回罪を犯してしまった一人一人が償いの人生を歩むことを望む。