道徳が身を滅ぼすことへの処方箋

 

今日は少し難しい話。
フロイト死の欲動の理論と不幸の感情の関係について。


現代は平和な時代ですか?って人々に聞いたら、多くの人がきっと同意してくれる。
でも、
現代は幸せな時代ですか?って人々に聞いたら、果たしてどれだけの人が「幸せな時代」だと口にするだろうか。
「あなたは今幸せですか?」って問いかけたら、「もちろん!」と返すだろうか。口ごもってしまうのだろうか。

 

自分は曲がりなりにも医師を志した者として、特に自殺の問題には関心を持っている。
自分の近親者や友人にうつ病を患った人がいることもあり、
いったいどうして彼ら彼女らは、心を病み、自らを追い込み、破滅させてしまうのだろうか?と思っていた。

 

先日から読んでいた中山元さんの『フロイト入門』という本から一つの仮説が導けたので紹介しようと思う。

フロイトの名はほとんどの人が名を聞いたことがあるはずだ。
彼の一番の功績は、無意識の発見。
もともと神経症(ヒステリー)の分析から、人の心には意識に上がってこない無意識という領域があって、むしろ人の生活に大きな影響を与えているのは無意識の方なんじゃないかって仮説を打ち立てた。

これは精神医学界だけでなく、哲学的にも文学的にも激震を与えるものだった。

近代に入ってから神に代わって理性が信奉されるようになった。人は理性によって真理を見つけ出していける…そう信じるようになった。

そんな時に、「いやいや人は理性じゃなくて、無意識に支配されているのよ」って主張したわけだから。近代の理性信仰を根本から揺るがすものだったのだ。

なお、神経症という疾患概念は今は使われていなくて、現在は転換性障害解離性障害に分かれている。体に症状が現れるのが転換性障害、心に症状が現れるのが解離性障害という。

 

彼の理論のほとんどはとても説得力のあるものだけれど、
一つ弱点があった。
それは実証できないということ。
人の心の特性上、フロイトが考案した自由連想法も、超自我・エゴ・エスの理論も証明は現代になってもできていない。


だから、これから話をする"死の欲動"の理論についても、フロイトの仮説に過ぎない。
ただ、あまりにも説得力があるのだ。


フロイトは人の根源的な欲求として2つあげた。
エロスの欲動と、攻撃の欲動である。

フロイトには有名なエディプス・コンプレックスという説がある。
息子は本来的に母親に対して性的な欲望を持つ。一方で、父親に対しては憧れと憎しみを抱く。そしてこの葛藤を青年期へと至る心理的発達過程において克服していく。いわば、母親に対して抱くような欲動が、エロスの欲動であり、父親に対して抱く欲動が攻撃の欲動である。


エロスの欲動と攻撃の欲動は互いに対立しつつ絡み合うとされ、フロイトによれば人間の原社会(根本的な原始的共同体)においては息子たちによって父親殺しが行われたという。これは母親に対するエロス的欲動を、父親によって制限されたことによって、その欲動を解放するために父親殺しへと走ったとされる。そして、父親を殺した息子は、その罪の意識を持つようになり、自らエロス的な欲動・攻撃の欲動をコントロールするようになる。これが超自我であり、この個人の超自我が、共同体へ拡張された時、共同体の道徳となる。

これはフロイトの社会共同体形成理論の部分で、非常に難解な部分なので、そんなに気にしなくていい。

 

大事なのは、最初の部分と、最後の部分。
人間には本質的にエロスの欲動も攻撃の欲動があること。
共同体の形成において、エロスの欲動も攻撃の欲動が最終的に制限されるということ。

 

フロイトは近代社会において、この制限が人の不幸と密接な関係にあることを指摘する。
すなわち、文明の発展と理想は、攻撃の欲動の放棄を人々へ強要する。
この放棄が失敗して、外的なものへと向かうとき、他人への攻撃性が発動する。場合によっては戦争を引き起こすこととなる。
では内的なものへと向かう場合は?
その時、その攻撃の欲動は自己破壊的な作用を及ぼす。

そして、これがフロイトのいう"死の欲動"である。

 

以下はフロイトではなく自分の仮説だ。

この死の欲動の理論はそのまま現代において不幸な人が増えていることをそのまま説明しうる。

不幸な人の人数が増えているかどうかを証明するのは難しい。
仕方がないので、ここでは自殺の件数とうつ病の件数が増えているかを調べてみる。

①自殺の件数

http://kangaeru.s59.xrea.com/JisatuSUUGraph.gif

これは厚生労働省の統計によるグラフだが、自殺件数が圧倒的に増えているのがわかる。

 

http://kangaeru.s59.xrea.com/JisatuRituGraph.gif

これは人口比。60歳以上は終戦後に減少しているが、20代〜50代は終戦後は減ったり増えたり不規則。

ただ、失われた二十年に突入したあたりから、10代〜50代まで全て増加傾向にある。

うつ病気分障害)の患者数

http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2010/07/images/03c.gif

うつ病の認知度が上昇したことなど他の要因も絡むと考えられるが、増加傾向にあることは間違いない。

 

これらのデータを前にすると、どんなに戦中戦後を生き抜いた人たちが、「今の時代を生きている人は幸せ者だ!甘えだ!」って偉そうに語ったところで、当の本人はそれほど幸せに思えていないということが示されている。

ではいったいそれはなぜなのか?

それが、フロイト死の欲動で説明できる。

 

戦争が終わり、治安が回復し、平和な時代になった。

暴力や略奪は正当化できるものではなくなり、差別的な言動は取り締まられるようになった。
平和な時代になればなるほど、人は道徳的な行為が当然となる。

人々は自らを道徳で縛る。それは決して悪いこととは言えない。
しかし、この時、人々の心の中で何が起こっているのか。
平和であるがゆえに芽生えた道徳心によって、人々の行き場を失った攻撃の欲動が自己へと向かっていく。
攻撃性の矛先が自らへと向かい、自己破壊的な作用を及ぼすようになるのだ。


私たちの時代は、道徳的な世界を手に入れた。戦争がなくなり平和になった。
しかし、それは攻撃性が外へ向かわなくなったために、それが表在化しなくなったに過ぎない。
その分のエネルギーは心の内側に向かうようになり、人を痛めつける。
それも良心的で道徳的な人ほど。

 


じゃあどうすればいいのか?
矛先が内部に向かっているからといって、再び攻撃の矛先を外部へと向けて、攻撃的な行為…すなわちいじめや喧嘩、差別や戦争を正当化するというのは不毛な考えだろう。

 

一つは、人の生来の欲動の対となるエロスの欲動を満たすこと。
エディプス・コンプレックスの例にあるようにフロイトの理論では、エロスの欲動が満たされないと、攻撃の欲動の方でエネルギーの解放を行おうとしてしまう。

逆手に取れば、エロスの欲動でガス抜きをすればいいのだ。
人々は積極的に恋愛をするといい。それは、エロスの欲動を満たし、自らを幸せにしうる。

 

二つは、他者破壊的でない方法で、攻撃の欲動を満たすことだと思う。
ゲームやスポーツといった領域では、攻撃の欲動の解放が行われる意義があるはずだ。

 

その上で、良心的な人、道徳的な人、責任感のある人…
そういった自己懲罰的傾向のある人は、少しくらいわがままになるべきだ。
彼ら彼女らは攻撃性を内側に向け過ぎだ。
相手に対して暴力的な行動や言動をして迷惑をかけないのなら、
別に嫌いな人を嫌いって思っていいし、「私は悪くない!悪いのはあいつだ!」って考えていいのだ。


こうした些細かもしれない取り組みがこの平和な世の中に、真の幸せを取り戻すためには必要なんじゃないだろうか。

 

フロイト入門 (筑摩選書)

フロイト入門 (筑摩選書)