人間が解体されつつあることへの警笛

これは今日考えたこと。

人間って理性的な人間と言われるぐらいだから、誰もが考えてながら生きているわけだけれど、
今日気づいたのは、考えることは誰にでもできることではないんだなってこと。

ここでの"考える"ってのは昨日の投稿でいう"考える"ってこと。思いつきとは違う。

 

今も昔も考えなくても生きようと思えば生きれるんだって思う。
昔だったら、大多数派の人は親や先生の教えや文化に従って生きればよかった。

時代が代わる時期(明治維新とか)のその中心にいた人々をのぞけば、自分のすぐ近くにある文化・価値観に身を任せれば生きていくことができたのだと思う。

 

今も同じだと思う。
学校の教育は正解を教える形式がほとんどだから、まず考える必要はない。
大学入試も医師国家試験もパターン慣れすれば突破できるから、あまり頭を使わなくてもよかった。
アルバイトの現場ではマニュアルが基本だ。

ビジネスの現場では思考法とか発想法とかいわれているけれど、アナロジーで大部分はなんとかなるんじゃないかな。
例えば新しい企画アイデアを練るためには、AというテーマとBという別のテーマを組み合わせるみたいな形でほぼ無限にアイデアをブレストできる。
これは思考というよりは連想で、やはり思いつきに近い。

恋愛や家事などの実生活は経験的な判断を重んじるだろう。恋愛も人間関係も失敗を繰り返して成長していくという。その過程は経験からの学びであって、思考ではない。

さらにいうなら、GoogleなどのITの発展はさらに人間を怠惰にしてきた。考えなくても検索ボックスに一言投下すれば答え(のように見えるもの)が表示されるようになった…

 

普通に生きている人が考えていない!って言いたいわけではなくて、

考えなくても生きていけるって言いたい。

"思いつく"ことだけでとりあえず生きていける…生きていけてしまうってこと。

 

これは決して悪いことじゃない。毎日毎日考え考え暮らしていたら疲れてしまう。

悩まないってのは一つの選択だ。オバマ大統領やザッカーバーグが毎日同じ服を着るのと同じだ。

思考にはエネルギーを使うから、温存しておくのは自然な行為だ。

 

だが、しかし…
考えなくても生きていくことはできてしまうということは、考えるという行為は人にとって本来的に+αの行為であるってこと。

もし普通に生きているだけで、考えるってことが行われないのだとしたら、それは使われない力として簡単に衰えていくだろう。

 

自分としては"思いつく"ではなく"考える"ってことは人間の権利だと思いたい。 

考えることができる人は、主体的に生きることができる。

考えることができない人は、誰かがどこかで言っていたような知識を鵜呑みにしていく。

たとえ、"思いつく"だけとりあえず生きていくことができるのだとしても、考えていく行為に人間の尊厳があると思いたい。

 

もう一つ人生における納得について。

どうして自分がそんなことにこだわるのか考えてみた。

そこで気づいたこと。それは、自分は自らの選択が“選ばされていた”と言うことに我慢ならないのだと。

 

フロイトの無意識の発見に始まる心理学や、レヴィ=ストロースに始まる構造主義

これらが指摘したのは人間の選択は、宗教や文化、そして自我ではないものによって規定されうるということ。

加えて、近年のIT企業は膨大なクライアントのデータを心理学的に応用して、どのタイミングでプレイヤーを煽ったり広告を見せたら課金する確率が一番高いかなどを分析し続けている。

 

…恐ろしい話だ。自分の選択が実は誘導されていたに過ぎなかったなんて。

 

おそらく、
人は選択の自由が保証されていれば、自分の人生を後からみて肯定的に受け止めることはできる。人間にはそういう本性が備わっている。

極端な話、ある人の人生の選択が全て〈何ものか〉によって誘導された結果だったとして、その人は納得して生きていくことができるだろうか?

 

…できてしまうのだろう。

内側から見たら自分で選んで後悔のない人生を送っている、
でも外側から見たら選ばされている人生、それでも人間は本当に幸せか?
これからITやAIによってどんどんコントロールされていく中、人間の本当の意味での幸せってなんだ?

 

人間が解体されつつある。そのことへの警笛を鳴らしたいのだ。

 

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

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