洗練と本質

夏の甲子園で大会通算ホームラン記録11年ぶりに更新したらしい。

藤井4段の連勝記録の歴史的更新の時もそうだったけれど、過去の記録を塗り替えたって聞くとなんだかワクワクする。

まだ見ぬ世界を切り開いて連れて行ってくれるような気がして、フロンティア精神をくすぐられるのかもしれない。



 

最近は時代の変化ってものを強く意識するようになった。

時代は移り変わるもので、今、この現在も変化の途中にあるんだと。

 

当たり前のことに聞こえるかもしれない。

でも僕は心のどこかで、この平成の時代と、昭和以前の時代とが結びついてなかった。

まるで平成という時代がいきなり始まったかのような印象を感じていた。

あらゆるものが、時代が平成に突入する段階で、すでに一度完成していたかのような…そんなイメージを持っていた。

 

でも違う。

あらゆるものは時代と共に変化していっている。

社会もそうだし、スポーツの記録もそう。文化だって。

 


洗練されるものと洗練されないものの違いはどこにあるのだろう。

きっと今の甲子園優勝チームと、昭和時代の甲子園優勝チームで勝負をさせたら、今のチームが勝利するんじゃないかな。

スポーツについては、練習方法が体系的なデータの積み重ねによって改善され、戦略が新しく編み出され、栄養状態の良い子供と医学的に正しいトレーニングは筋力を高めたことだろう。

 

きっと昔より、あらゆる面で現代の方が洗練されているはずだ。

文化系はどうだろう。明らかに漫画の質は上がっている。

シンプルな戦隊モノや戦闘ものよりも、深い哲学性や社会風刺、複雑で鋭い心理描写が好まれ、漫画はもはや大衆娯楽で括られるレベルをとうに超えている。一つの表現技法として、日本が世界に誇る文化となっている。

 

一方で、俳句は最盛期に比べると寂しくなっている。きっとこの違いは作家の人数が減少傾向だからだろう。漫画は大衆娯楽性とも合間って、読者も、漫画家を志す人も爆発的に増えた。だから体系化と技術の蓄積が進み、急速に洗練されていった。

 

相撲や囲碁も減少傾向にあるはず。少子高齢化で後継者が減り、また現代は流行の新陳代謝が激しい。趣味の細分化・多様化と合間って、一度減り始めた分野はなかなか人の獲得は難しい。

ネットワーク効果もあるのかもしれない。

 

でも相撲は国技として国が支えていく側面があるし、

囲碁や将棋はネットを通して、至る所でできるようになった。

文章を書くということは、誰にでもできるが故に大衆性と深く結びつくけれど、その分可能性を持っていて、僕はそこに新しい俳句の可能性があっていいと思う。

Twitterは140字で思いを綴るツールであるけれど、日本人がTwitterを活用するのは、短い文章でできる限り広い世界を伝えることに造詣が深いことの象徴だろう。

 

価値あるものは、本質が受け継がれ残っていく。

それまたよろずに通じる真実かもしれない。