彼を知り己を知れば百戦殆からず

今日は軽めに。
自分のニュースのキャッチアップ方法について。
自分が使っている情報収拾アプリは、

①LINEニュース

②Newspicks

BCCニュース

Feedly

Twitter

この5つって感じ。


純粋にニュースのキャッチアップに関しては①と②を多用してて、他はサブ。

簡単に一つ一つを解説すると、

①LINEニュース
なんといっても見やすい!広告がほとんどないし、多くの記事は部分抜粋によって要約されているのも素晴らしい。単位時間当たりのニュース収拾率はダントツ。

 

②Newspicks
最大の特徴は最前線でビジネスをやっている人たちのありがたい見解を知れること。
ネックになるのはやはり情報量の多さ。SmartNewsGunosyと比較して広告も少ないのも◎

BCCニュース
たまに日本ではあまり報道されてないのに、海外では大きく取り上げられているニュースがあったりする。日本の国会がゴタついている時とか。あとは英語力の維持にも良い。

 

Feedly
この人のブログは絶対に見逃せない!!って人をFeedlyでフォローしておくと、ブログの更新が、Feedly内に自動で反映される。フォローし過ぎると読みきれなくなってしまうので注意。


Twitter
これは使い方は人それぞれ。どんなサービスよりも直接的で正直な言動・感想が飛び交っている印象。ターゲット層のことをより具体的に知るには有用かな。

 

個人的にニュースアプリを使いこなすためのコツを述べるのなら、一言、

"彼を知り己を知れば百戦殆からず"(孫子の兵法より)

 

まずは彼を知る…すなわち使うアプリの特徴を押さえる。
長所と短所、場合によってはその報道の傾向、信頼性は十分なのか、ビジネスモデルは広告モデルなのか課金モデルなのか、はたまたアフィリエイトモデルなのか。

報道の傾向については、産経新聞は右寄り、朝日新聞が左寄りってのは有名だし、
SmartNewsGunosyは広告モデルがメインだと思うので、どうしてもSponsorの紛らわしいリンクが増える。対してNewspicksは課金モデルなので広告は少ない。
アフィリエイトモデルは売ることがモデルなので、正直言って節操がない。

基本的に企業はそのアプリを長く使ってくれるほど、ユーザーの詳しい情報を手に入れることができるし、広告を表示するチャンスを得られるから、長く居座らせようとする。
ってことは、あまり意識せずに情報収拾系のアプリを起動させると、無駄に時間を消費してしまうってことになる。

 

だから、自分が一体どんな情報を得たいのか、なんのための情報を得たいのかを念頭において、情報の海に入らないといけない。
これが己を知るってこと。

 

自分の場合は、国内・経済・海外・医療・ITに関しては優先的に情報をキャッチアップしたい。
そこで、LINE Newsでざざって事実だけ押さえる。
その上で、賛否両論ありそうなものや重要そうなニュースについて検討をつけて、Newspicksのコメント欄の議論を垣間見る。

 

Feedlyはちきりんさんや佐藤航陽さんとか有名な人しかフォローしてない。
毎日ブログを更新する人は情報量が多いので外してしまった…
(情報は消費するのではなく生産する側に回るものだと学んだのだ)

 

Twitterはそれこそマーケティングとかを本格的にやる人は特に有用になるんじゃないかな。
Newspicksには、ほとんど若い人(特に若い女性)は現れないから、彼ら彼女らの生の意見を知るためには、TwitterInstagramが重要になってくると思う。
InstagramFacebookはどうしても見栄が出てきてしまうからノイズがはいる。

 

となると、若いインフルエンサーとかをTwitter上で何人かフォローしておくと、時代の流れに取り残されなくて済むのではないかと考えている。

 

変革する力を持つ人たちの責任

今日は社会の変革について。
いきなり何やら危険で胡散臭い言葉を書き出してしまって申し訳ない。
自分は世の中がより良い方向に向かう条件について普段から考えていて、その一つの条件を考えてみたので書き出そうと思ったのだ。

 

世界の歴史を紐解いてみて、また自分のわずか25年間の人生経験と照らし合わせてみて、一つ言えること。

それは、

『変革する力がない人が理不尽に虐げられているケースは、変革されない』

いきなり元も子もないことを言ってしまった。
これは裏を返してみると、

『変革する力を持つ人が理不尽に虐げられているケースは、変わりうる』

 

世界史的には、典型的なケースがいくつかあって、
一つは古代ギリシアの民主政治の発展。
元々は一部の貴族しか持っていなかった選挙権が、一般市民の戦争での活躍などを通して徐々に拡大していった。

二つは有名なフランス革命
これは典型的なブルジョアジーによる革命だった。

三つはアメリカ独立革命。

この三者に共通するのは、もともと被支配層だった人たちが徐々に力をつけていったということ。力ってのは変革に繋がるものならなんでも含む。法律家になった人が増えたとか、経済力をつけたとか、民衆の信頼を得るようになったとか。

 

そして力をつけていったところで、既存の支配・被支配関係に矛盾が生じる。
すると、彼らはこの社会構造は間違っていると思ったときに、実際的な行動を起こすようになる。
彼らには蓄積された力があるから、多くの人を巻き込むことができたり、経済的に圧力をかけることができたり、法律に訴えたりすることができた。

ここで話を変える。

マルクスは、プロレタリアートが団結することによって革命が起きるとしたけれど、実際にそうだったろうか?
確かに、ソ連をはじめいくつかの社会主義国家が、革命を経て誕生した。
でも自分はこれらはプロレタリアートの団結によって成し遂げられた訳ではないと思う。
一つ、プロレタリアートは力がないために変革する力を持たなかったから。
二つ、彼らの願いは社会主義国家ではなく、いまより豊かな暮らし、ただそれだけだった。その願いを叶えてくれそうな政治家として、革命家に賭けただけだった。
三つ、結局のところ、力を持っていたのはプロレタリアートではなく、民衆の信頼を獲得した政治家だったにすぎない。

本当の意味で民衆が力を得たわけではなかった。それゆえに支配・被支配関係は継続した。民衆の生活は豊かになるどころか、さらにひどい権力ゲームが生まれ、ソ連ではスターリニズムが引き起こされた。

 

変革する力を持った人が理不尽に虐げられている場合は、社会に変革は起こりうる。
この例は現代社会にもいくつか当てはまる。
一つは女性の社会進出。昔は女性は投票権も、教育を受ける権利も、仕事をする権利も奪われていた。それがいまでは男女平等が当然の価値観の社会になった。
この変化自体も、本来的に女性が男性と変わらず力を持った存在だったからこそ起こった変化だとも捉えられるし、女性が社会進出すればさらに彼女らは変革する力を身につけることになる。そのことによって社会変革はもっと加速していったとみれる。

 

LGBTの人たちにも同じことが言えると思う。
彼ら彼女らを取り巻く環境は、まだこれから変わっていく段階にあるわけだけれど、彼ら彼女らの中には、かつてのユダヤ人のように非常に才覚に溢れた人たちがたくさんいる。弁護士になった人、医者になった人、何よりテレビに登壇するインフルエンサーがわんさかいる。
彼ら彼女らはどんどん力を積み上げ、影響力を蓄積している。
将来はLGBTの人たちにとって明るい。それは間違いない。

 

#MeTooの運動も、インフルエンサーと呼ばれる力を持った人たちが動いているから、爆発的な運動になる。
現代のIT技術の発展はこうした動きを後押ししている。

 

だがしかし、冒頭の命題に戻る。
『変革する力がない人が理不尽に虐げられているケースは、変革されない』
現代において力のない人たちはどんな人たちだろうか?

彼らは経済力もなく、教育の機会にも恵まれず、人的ネットワークにも恵まれず、信頼も薄い。ITにも疎ければ、インフルエンサーどころじゃないだろう。
現代で変革の力と考えられるような力を奪われている人たちはどこにいるだろうか?
一歩立ち止まって考えてみてほしい。

 

大事なのは、彼ら彼女らが存在したとして、彼ら彼女らの状況は一向に変わらないという残酷な現実が待ち受けているということ。
なぜなら、シンプルな話、変革するための力を持っていないからだ。
マルクスプロレタリアートは団結しざるを得ない状況においこまれ団結するといったが、自分が指摘する人たちは、この現代のネットワークから取り残され、資本主義によって分断され押しとどめられている。


最後、だからこそだ。
力を持つ人の役割は、そんな人たちの分も変革のための活動をしなくてはならない。
それが力を持つ人の役割であり、責任なのだと自分は考える。

 

 

 

時代と閉塞感と思想と

自分はよく本屋へ行く。
特に買う予定がなくても、ふらっと立ち寄ってしまう。
本屋特有の紙の本の匂いが好きだし、山のように積まれている本を見るのも楽しい。

 

欲を言えば、並んでいる本を見て社会が見えるようになりたい。
今ヒットしている本、あるいは貼り出された広告に踊る文字…そういった情報から、この時代の流れを読み取れたら面白いと思う。
きっとヒットするからには、何かしらの理由があると思うのだ。

 

東日本大震災の後、『進撃の巨人』が大ヒットした。
特に20代を中心とする若年層で大人気となり、アニメ化・映画化もされた。
自分も試験前日に現実逃避で観たりしていた。

漫画を読んだ人・アニメを観た人はご存知のように、『進撃の巨人』のストーリーは、絶望・閉塞感・ままならなさ・残酷さ・リアル…そういった要素が満ち満ちている。
もっと年齢が低い人が読めばトラウマになるレベルだ。

そう言えば自分は高校生の頃に太宰治の『人間失格』を読んでトラウマになりかけた。

 

でも一体どうしてそんな作品が大ヒットしたのか。
これについては色々な評論家がすでに説を述べているので、自分は大して書こうとは思わないけれど、一言でいうのなら"時代を反映していた"のだろう。
実際、同時期にヒットしたまどか☆マギカもなかなかに絶望的な戦いを描いている。
他にも探せばたくさんあるはずだ。

もちろん昔から、そういうデカダンス系というかニヒリズム系の作品が好きな層は一定数いただろうけれど、それが社会現象になっていることに意味がある。

 

本当に自分たちの時代を反映しているだろうか?

絶望という直接的な言葉で表現するまではいかなくとも、ある種の閉塞感・頽廃的な空気感は自分たちの世代を包み込んでいると感じる。

これは多くの同世代の人たちが共感してくれるところだろう。

 

その時代が閉塞感・絶望・頽廃的な空気で満たされるのは、信じていたものが打ち砕かれる時だろう。
日本で言えば、高度経済成長期時代の共同幻想はほぼ打ち砕かれた。
理想の就職の形、家族観、恋愛観…インターネットの発達に伴って相対的な価値観が広がり、共同幻想の崩壊は加速された。

そんな今は、目指すべき方向を見失った不安に満ちた時代なのではないか。

 

世界史を紐解くと近い時代はいくつかある。

一つは古代ギリシアのヘレニズム期。精神的なよりどころとしてのポリスは、衆愚政治・権力争いの末にその存在意義を失った。人々の間には混乱と不安が広がり、心の平静を内に求めていった。

そこに現れたのがエピクロス派(快楽主義)、ストア派(禁欲主義)といった思想だった。
ストア派は、心の平安が最高の快楽と考える学派で、
エピクロス派は、禁欲することによって心の平安を目指す学派であった。

 

もう一つは、戦後ヨーロッパ。
二度の世界大戦を通して、理性や科学は凄惨な過ちを犯しうることを自ら証明した。
ヨーロッパの文化を第一とする価値観への反省が生まれ、その誇りは打ち砕かれた。
そこで注目されたのが、実存主義思想であった。

絶望の最後の救済として主体的真理として神への信仰を説いたキルケゴール
ままならない世の中なら、いっそ未来に向けて自分の生を投げ出して、自らの生を選び取っていかないかと説いたJ.P.サルトル

一切の真理を否定し、ニヒリズムを克服する方法として、"力への意志"を説いたニーチェ

 

この不安定な時代を乗り越えるヒントは、彼らの思想にあるかもしれない。

 

ニーチェ入門 (ちくま新書)

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人間が解体されつつあることへの警笛

これは今日考えたこと。

人間って理性的な人間と言われるぐらいだから、誰もが考えてながら生きているわけだけれど、
今日気づいたのは、考えることは誰にでもできることではないんだなってこと。

ここでの"考える"ってのは昨日の投稿でいう"考える"ってこと。思いつきとは違う。

 

今も昔も考えなくても生きようと思えば生きれるんだって思う。
昔だったら、大多数派の人は親や先生の教えや文化に従って生きればよかった。

時代が代わる時期(明治維新とか)のその中心にいた人々をのぞけば、自分のすぐ近くにある文化・価値観に身を任せれば生きていくことができたのだと思う。

 

今も同じだと思う。
学校の教育は正解を教える形式がほとんどだから、まず考える必要はない。
大学入試も医師国家試験もパターン慣れすれば突破できるから、あまり頭を使わなくてもよかった。
アルバイトの現場ではマニュアルが基本だ。

ビジネスの現場では思考法とか発想法とかいわれているけれど、アナロジーで大部分はなんとかなるんじゃないかな。
例えば新しい企画アイデアを練るためには、AというテーマとBという別のテーマを組み合わせるみたいな形でほぼ無限にアイデアをブレストできる。
これは思考というよりは連想で、やはり思いつきに近い。

恋愛や家事などの実生活は経験的な判断を重んじるだろう。恋愛も人間関係も失敗を繰り返して成長していくという。その過程は経験からの学びであって、思考ではない。

さらにいうなら、GoogleなどのITの発展はさらに人間を怠惰にしてきた。考えなくても検索ボックスに一言投下すれば答え(のように見えるもの)が表示されるようになった…

 

普通に生きている人が考えていない!って言いたいわけではなくて、

考えなくても生きていけるって言いたい。

"思いつく"ことだけでとりあえず生きていける…生きていけてしまうってこと。

 

これは決して悪いことじゃない。毎日毎日考え考え暮らしていたら疲れてしまう。

悩まないってのは一つの選択だ。オバマ大統領やザッカーバーグが毎日同じ服を着るのと同じだ。

思考にはエネルギーを使うから、温存しておくのは自然な行為だ。

 

だが、しかし…
考えなくても生きていくことはできてしまうということは、考えるという行為は人にとって本来的に+αの行為であるってこと。

もし普通に生きているだけで、考えるってことが行われないのだとしたら、それは使われない力として簡単に衰えていくだろう。

 

自分としては"思いつく"ではなく"考える"ってことは人間の権利だと思いたい。 

考えることができる人は、主体的に生きることができる。

考えることができない人は、誰かがどこかで言っていたような知識を鵜呑みにしていく。

たとえ、"思いつく"だけとりあえず生きていくことができるのだとしても、考えていく行為に人間の尊厳があると思いたい。

 

もう一つ人生における納得について。

どうして自分がそんなことにこだわるのか考えてみた。

そこで気づいたこと。それは、自分は自らの選択が“選ばされていた”と言うことに我慢ならないのだと。

 

フロイトの無意識の発見に始まる心理学や、レヴィ=ストロースに始まる構造主義

これらが指摘したのは人間の選択は、宗教や文化、そして自我ではないものによって規定されうるということ。

加えて、近年のIT企業は膨大なクライアントのデータを心理学的に応用して、どのタイミングでプレイヤーを煽ったり広告を見せたら課金する確率が一番高いかなどを分析し続けている。

 

…恐ろしい話だ。自分の選択が実は誘導されていたに過ぎなかったなんて。

 

おそらく、
人は選択の自由が保証されていれば、自分の人生を後からみて肯定的に受け止めることはできる。人間にはそういう本性が備わっている。

極端な話、ある人の人生の選択が全て〈何ものか〉によって誘導された結果だったとして、その人は納得して生きていくことができるだろうか?

 

…できてしまうのだろう。

内側から見たら自分で選んで後悔のない人生を送っている、
でも外側から見たら選ばされている人生、それでも人間は本当に幸せか?
これからITやAIによってどんどんコントロールされていく中、人間の本当の意味での幸せってなんだ?

 

人間が解体されつつある。そのことへの警笛を鳴らしたいのだ。

 

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 

 

「思いつき」と「論理的思考」は違う

これはつい先ほど気づいたことだけれど、もしかしたらここ1週間で一番大きな発見になるかもしれない。

 

自分は昔から、考えることが好きなくせに考えることに対して苦手意識を持っているような人間で…
どうにかうまく考えることはできないかなって常日頃から考えてる。

メモの仕方だったり、思考の仕方だったり…
思考の仕方に関するハウツー本もたくさん読んでいたりする。

結果的に、ハウツー本はほとんど役に立ってない。
いや、無意識のレベルで血肉になっているのかもしれないけれど。
赤羽 雄二さんの『0秒思考』って本にせよ、ちきりんの『自分のアタマで考えよう』にせよ、外山滋比古さんの『思考の整理学』にせよ。

原因についてはまだあまり考察していないけれど、一つには"思考"って行為そのものがとても個人的な行為だから、一般論や他者の方法論との落差がどうしても大きくなって、それゆえにどんな本も参考ぐらいにしかならないのかなと思う。

 

今回の思いつきは、位置づけ的には『0秒思考』や『思考の整理学』への反論になるのかもしれない。

まずは結論から。

 

「思いつき」と「論理的思考」は違うんだってこと。

 

「思いつき」ってのは、心に浮かんだことをひたすら書き綴る行為。
「論理的思考」は、論理的な思索の末に書き出す行為。
この二つ、おそらく前者と後者の境界は決して明確ではない。

思いつきの文章が論理を兼ね備えていないわけじゃない。
書くなかで自然と論理構造を意識できる人もいるだろうし、思いつきとはいうものの、常日頃から心の奥底で考えていたことが、ちょっとしたきっかけを機に言語化されたケースもある。
きっとそういったケースは、思いつきの文章といえど、ある程度の論理性を兼ね備えている。

つまり、読んで納得しやすいってこと。


ただ、一方で思いつきは一般的にいって論理が弱いというのもまた事実だろう。

結婚式の披露宴で急にスピーチしてくださいって言われて、その場で理路整然とした言葉をつらつらと述べることができる人は、おそらく常日頃から自分の意見を発信する機会にさらされている人だと思う。

だいたいのひとは、その場でしどろもどろになるか、どこかで聞いたことのあるあたりさわりのない話をするか、前々から思っていたことを述べるか…そんなところだろう。


とにかく、

ここで言いたいのは、「思いつき」というのは、論理的思考によって十分な批判に晒されていないってこと。

批判ってのは比較検討したり、なぜ?とかそれが何?とかごりごり考えること。

自分はこれを、さながら本の新刊が数年〜数十年の間に名作以外忘れられていく様=時の洗礼とよぶことに例えて、

"論理の洗礼"と呼ぼう。

 

思いつきは"論理の洗礼"を受けていない。

"論理の洗礼"を受けていないということは、非常に薄っぺらい論理によって、その発想・構想・アイデアは支えられている可能性が高いということ。

 

『0秒思考』や『思考の整理学』という本では"思いつき"については詳しく述べられているが、この"論理の洗礼"については忘れられている。

"思いつき"を思考だと勘違いしてしまうと、その人の発言や書く文章はとても薄っぺらいものになりがち。
常日頃から思いついたことをメモすることはとても良いことだけれど、それが"論理の洗礼"を超えたものなのか、そうでないのかは意識した方が良いと思った。

 

以上、今日の思いつき…いや、思考は終わり。