パーソナリティ障害とは?

そもそもパーソナリティとは、人が持つ固有のものの見方や性格的な傾向である。
これらは、生育環境や発育過程に影響されながら形成され、一過性のものではなく一生を通して作られていくものである。

全ての人が一人一人性格や思考のくせが異なっているように、全ての人は一人一人パーソナリティに歪みをもつ。その歪みが、周囲の期待する範囲内である限り、それは個性などと呼ばれることになる。

しかし、このパーソナリティの歪みが文化の許容量を超えて、極端かつ柔軟性を欠き、対人関係において支障をきたす場合、パーソナリティが障害されていると言う。

これをパーソナリティ障害といい、この疾患の定義からして、患者はこの疾患を一生の間背負っていかなければならない。

パーソナリティ障害(人格障害)|慶應義塾大学病院 KOMPAS

 

パーソナリティ障害の診断基準

以下にDSM-5に記載されているパーソナリティ障害の診断基準を引用する。

DSM-5とは、Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Editionの頭文字であり、米国精神医学会による精神疾患の診断基準である。 

  DSM-5によるパーソナリティ障害の全般的診断基準

  1. その人の属する文化から期待されるものから著しく偏った、内的体験および行動の持続的様式。この様式は以下の領域の2つ(またはそれ以上)の領域に現れる。
     (1)認知(すなわち、自己、他者、および出来事を知覚し解釈する仕方)
     (2)感情性(すなわち、情動反応の範囲、強さ、不安定性、および適切さ)
     (3)対人関係機能
     (4)衝動の制御

  2. その持続的様式は柔軟性がなく、個人的および社会的状況の幅広い範囲に広がっている。

  3. その持続的様式が、臨床的に意味のある著しい苦痛または、社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。

  4. その様式は安定し、長時間続いており、その始まりは少なくとも青年期または成人期早期にまでさかのぼることができる。

  5. その持続的様式は、他の精神疾患の表れ、またはその結果ではうまく説明されない。

  6. その様式は安定し、物質(例:乱用薬物、医薬品)または他の医学的疾患(例:頭部外傷)の直接的な生理的作用によるものではない。

 

要は極端なり偏りそして繰り返す物の解釈のパターン、そしてそれば社会生活や人間関係に支障を来たしていて、かつ、その始まりは発育期に遡り長期に及ぶもので、他の病気や病因で説明できない。これがパーソナリティ障害の基本的な枠組みである。

 

 パーソナリティ障害は、境界性パーソナリティ障害や、自己愛性パーソナリティ障害、演技性パーソナリティ障害など様々病型が存在する。

 

継続的に何かをできるようにするためには?

どんなジャンルにせよ、成功した人の共通点として挙げられるのは何か。
それは名コーチやメンターがいることでも、支援してくれる伴侶や投資家がいることでも、優秀な部下がいることでもない。

それは継続することだった。

エジソンは1万回の失敗をし、カーネルサンダースは1000回も営業を断られ、イチローは幼少期から血の滲むような努力を毎日続けてきたという。

たとえ才能がなくとも、継続することさえできれば、大成することができる。そうわかっていても、継続ってすごく難しい。

では、継続できない背景には何があるのだろう。

 

 

■モチベーションが途切れてしまうケース

モチベートには、内的なモチベートと外的なモチベートがある。

内的なモチベートがうまくいかないケースとしては、継続によるメリットと継続しないことによるデメリットを忘れてしまうことによって、意志が弱まり途切れてしまう場合。これは繰り返し思い出させることで解消できるかもしれない。

 

そしてメリットデメリットを理解しているが、心がついていかない場合。これは精神的疲労やよく鬱感、無力感などに影響される場合がある。実際的な余裕を確保したり、成功体験を地道に積み重ねることが必要。

同様に、体がついていかない場合。身体的疲労はもちろん、続け方やHow toがわからない状況では始めることも続けることもできない。

 

次に、外的なモチベートが十分でないケース。

内的なモチベートで継続できる人は問題はないだろうけれど、多くの人が一人では気持ちが途切れてしまう。そういった人は環境から変えていくのが賢明だろう。

複数人で取り組んだり、上司がいたりすれば、強制力が働き継続できる可能性は上がる。

あるいは周りに気が散るものあったり、人がたくさん居るような環境で継続し続けるのは至難の技だろう。

 

以上が気持ちが途切れてしまう場合。

 

 

■モチベーションはあるが続かないケース

次にモチベーションはあるが続かないケース。

これは生活リズムが不規則である場合と規則的な場合に分けて考えてみる。

生活リズムが不規則であるというのは、優先順位の高いタスクが日常的に急に降りかかってくる場合。
集団で生活していたり、マルチタスクをこなしていたり、経営者など責任ある仕事についている人は、突然のタスクの降りかかりに計画が立て直しになることは多いだろう。
同時にいくつもの継続したいことを始めた場合に失敗しやすいのもこの理由からだ。

また優先順位が曖昧な場合も考えられる。
その時の気分によって、友人との外食を優先したり、新しいことを始めたりしていては、どれも長続きしない。自分で決めた期間内において、明確な優先順位を作っておくこと。そうすれば急な誘いや誘惑に対して判断を迷うことはない。

 

そして最後にモチベーションはあって生活リズムも規則的、にも関わらずうまくいかない場合。

これは何をもって"継続"とするかではないだろうか。

例えば毎日3時間ピアノに時間を割くと決めていれば、生活リズムが乱れない限り、毎日コンスタントにできるだろう。

しかし「毎日新しい曲を一つ弾けるようにする!」ことを継続目標として掲げた場合、曲の難易度によって毎日の負担が変わってしまう。

これは間接的に生活リズムを崩すことに繋がってしまうだろう。

 

 

以上の考察から導き出されるのは、

①メリットデメリットを繰り返し思い出させること。

②心の余裕を持ち、何をどうやるかを明確にすること。

③継続しづらい環境は避けること。仲間や仕事としてやるなど。

④生活リズムを整えること

⑤極力突発的なタスクが生じる環境は避ける。急な友人の誘いは断る。行動は計画的に。

⑥一度にいくつも継続しようとしない。始めたら変えない。

⑦やることの優先順位を明確にしておく

⑧継続は時間で区切る方法と、あるタスクの完了で区切る方法があるが、それらのメリットデメリットを考慮する。

 

といったことが大事なのだろう。

日本語を話す欧米人が少ない理由

日本語を話す欧米人ってあまり見ない。もちろんデーブ・スペクターや厚切りジェイソンといった例外はあるのだけれど。

普通に生活を送る中で、今はコンビニに行けばアジア系の外国人の方が対応してくれている。彼ら彼女らは非常に流暢な日本語を話してくれる。

一方で、英会話カフェで出会ったもう5年以上も日本にいるという欧米の方はろくに日本語を喋ることができなかったし、授業でお世話になる日本人の伴侶を持つ欧米人の先生も、聞き取りはそこそこ、話すとなるとてんでダメだった。

数ヶ月〜二年の日本語のトレーニングで、日本語を駆使して日常生活及び働くことができるアジア系の人がいる一方で、何年経っても日本語の日常生活がままならない欧米の人がいるのはなぜなのか。

いくつか理由を考えてみた。

 

①欧米人の方も流暢に日本語を話す人はたくさんいるケース

そもそも自分の肌感覚が間違っているケース。つまり選択的なバイアスがかかってしまっているのではないか。自分が日常的に接する外国人は、アジア系は飲食店(ex.中華料理屋、インド・ネパールカレー屋など)や留学生、在日中国人/韓国人の方。欧米系は観光地、英会話カフェ、医学英語の授業など。

こうして見ると明らかに偏りがある。そりゃあ観光で来ている人より、現地で働いてたり生活している人の方が日本語に習熟するだろう。

英会話カフェや医学英語の授業で来る先生はそもそも英語を教えるために日本に来ているわけで、生徒である日本人の前で日本語を使うシーンは少ないはずだ。

というわけで、たまたま自分が普段接点がある、日本語が流暢なアジア系の人の集団と、英語を日常的に使わない/見せない欧米人の集団とを比較しているだけなのかもしれない。

 

②欧米人で日本語を話そうと思う人が少ないケース

話そうと思わないのは、話したいけれど話さない場合と、そもそも話したくない場合が考えられる。

前者に関しては、

  • 欧米人が日本語を軽視している
  • 欧米人にとって日本語を学ぶのは難しい

などが考えられる。英語に比べて日本語は圧倒的にローカルな言語であり、日本語ができるようになったからといって、ビジネス上のメリットは少ないのかもしれない。個人的には日本の漫画や小説を読めるようになるのはものすごく価値のあることだと思うけれど。

加えて英語に比べて日本語が非常に複雑で回りくどく、言外の意味や行間を読むといった技術が必要とされて難しい。これは間違いない。

これらを総合して敬遠されるのは十分ありうる話だろう。

 

 

話を戻して、後者について。

そもそも話したくない場合。つまり話す動機がないケース。

これは色々あるかもしれない。

  • 仕事で日本に来ていて、やり取りは全て英語でなんとかなるため日本語を使う必要がない。
  • 日本人の奥さんと結婚しているが、共通語を英語としているからコミュニケーションに不足がない。
  • 前述でも述べたが、観光で来日しているに過ぎず、日本語に習熟する必要がない。
  • 裕福であるため、日本に出稼ぎに来る欧米人が少ない
  • 遠く質も高くないから日本に留学に来ようと思わない

最後の二つは母集団が少ない二例でちょっとずれるが一緒にした。

結局のところ、日本語を学ぶメリットが英語に比べて少ない(と、感じている)のかもしれない。

 

 

今回は思考のトレーニングとして考えてみた。

また今度。

 

ミューレンのストーカー分類

ストーキングとは悪質なつきまといのことであり、つきまとわれている被害者が精神的な苦痛を味わうことをさす。

歴史的にみてもストーキングが違法と認識されるようになったのは近年になってからであり、ストーカーによる殺人事件が社会問題となった1990〜2000年にかけて各国で規制法の制定が相次いだ。

日本では桶川の女子大生殺害事件がきっかけで2000年12月にストーカー規制法が施行された。

桶川ストーカー殺人事件 - Wikipedia

 

ストーカー規制法は、悪質なつきまとい行為を直接的に規制する。

具体的には、

①自宅・学校・職場での、つきまとい・待ち伏せ・押しかけ

②監視していると告げる行為

③面会・交際の要求

乱暴な言動

⑤無言電話、連続した電話・電子メール

⑥汚物・動物の死体等の送付等

⑦名誉を害する事項の告知等

⑧性的羞恥心を侵害する物品の送付

などである。

①〜④については「身体の安全、住居等の平穏若しくは名誉が害され、又は行動の自由が著しく害される不安を覚えさせるような方法により行われる場合」に限られる。

後述のようにストーカーには類型があり、ストーカー規制法で規定しているのは「特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する」ケースであり、それ以外の恋愛感情が介在しない悪質なつきまといは他の条例によって取り締まられる。

 

⑤の電子メールについては2013年までは規定がなかった。しかし、2012年に逗子ストーカー殺人事件がおきたことにより、規制法に盛り込まれることとなった。

逗子ストーカー殺人事件 - Wikipedia

事件の内容は読めばわかるが、身の毛のよだつものである。加害者はストーカー行為によって一度投獄され、出所した後に、"当時の段階で規制がなかった"電子メールで、"規制されない内容"のメールを繰り返し送り続け、Yahoo知恵袋で複数のアカウントを用いて、善意の質問者を装い、400に及ぶ質問を通して、被害者の住所近辺の情報や殺害方法の情報収集を行なっていた。

ストーカーの加害者は決して知的水準の低い人に限るものではなく、得てしてリテラシーが高い層も加害者になりうる。一流企業に勤めている人や医者や弁護士ですらなりうる。この逗子ストーカー殺人事件の加害者も、出所後の犯行はギリギリ捕まらないラインを見極めて行動に移しており、また投獄前の職業は高校教師であり知的水準は高いと考えられる。

 

知的水準よりはむしろ、性格的な傾向が関係するだろう。ボーダーライン気質でプライドが高く、感情の起伏が激しい。後述の拒絶型ではそんな人物像が典型的ではないか。

 

ストーカーの分類は、福島章の分類やミューレンらによる分類がある。

ミューレンによれば以下の4つに分類される。

(1)拒絶型

拒絶型は、元交際相手、元配偶者などをストーキングするタイプである。相手から別れを切り出されたことをきっかけに開始されることが多い。拒絶型のストーカーはプライドが高く、別れを切り出されたことでプライドが傷つき、これに対する報復の感情が動機の一つとなる。一方で彼らは相手に対して関係を修復し元通りの関係に戻りたいという欲求も持っており、復縁のためにプレゼントしたり謝罪したりする。彼らの行動はしつこく、攻撃もエスカレートすることが多く、特にもはや復縁が不可能になった場合には、彼らの行動は攻撃中心となる。拒絶型はストーカーの中で最も危険なタイプであり、傷害やレイプ、場合によっては殺人にまで発展する場合がある。

交際経験がある場合も多くそのケースでは、加害者は被害者の弱みを熟知しており、それ故に攻撃は効果的で被害者のダメージは大きいものとなりやすい。

 

前述の逗子ストーカー事件の加害者は、拒絶型と言えるだろう。加害者はプライドが高く、自分こそが傷つけられた被害者だと思っており、"お前も同じように苦しみを味わえ"、"幸せになんて絶対にならせない"などといった思考回路だろう。

 

(2)憎悪型

加害者は鬱憤やストレスを溜めやすいタイプで、ちょっとしたきっかけで不満を爆発させ、被害者に対して嫌がらせを開始する。加害者はじわじわと被害者を攻撃し、苦しむのを見たり想像することで満足する。被害者はなぜ嫌がらせを受けているのかわからないことも多い。

 

(3)親密希求型

この型では、加害者は被害者と愛し合っているとか恋愛関係にあるといった妄想をだきつきまといを行う。妄想は合理的な説得によって消すことは困難であり、「恋愛関係にない」とか「会うことはできない」といった説得は妄想に合わせて、"なぜ愛し合っているのに、会えないのだろう。誰かに反対されてるのだろうか"などと曲解される。

 

(4)無資格型

無資格型は、人間関係において相手の立場に立って物事を見ることが苦手な加害者によってなされるストーキング。この中には様々な形があるが、一番危険なのはサイコパス的な無資格型で、このタイプは被害者に対して一方的な求愛行動を繰り返し、それに対する見返りがないとその行動が攻撃に転化する。結果的に暴力やレイプなどの行動に出る場合がある。

 

(5)捕食型

レイプや性的殺人などを行う前段階としての情報収集のために、選定した被害者につきまとうストーカーのタイプ。被害者はつきまとわれていることにも気づいていない場合が多い。

 

全てのストーカーが綺麗に5つの類型に当てはまるわけではなく、オーバーラップするものも多いだろうし、型が変化していくケースもあるだろう。

 

書いていて一番に思ったのは、ストーカーはまだ非常にグレーゾーンが多いということ。もともと1990年代に至るまで、つきまといは違法とも認識されていなく、警察も民事不干渉の立場から積極的な対応はしていなかった。それが変わり始めたのはつい最近のことに過ぎない。そういう意味でまだ過渡期なのだ。

 

不法侵入やレイプ、脅迫など、明確な違法行為があれば取り締まることができるが、それが行われていない場合、むやみに被疑者を取り締まることはできない。そうやってグレーゾーンで取り締まれなかった膨大なケースの中に、殺人事件が発生し、その都度法律の穴また埋められていく。

 

もう一つ、住所の特定が今の時代は簡単にできてしまう。FacebookTwitterで自宅の近辺の写真や情報を投稿していれば、そこから辿ることができてしまう。FacebookTwitterが存在しない2011年の段階で、逗子ストーカー事件の加害者は、インターネットと聞き込みから被害者の住所を特定している。

 

加害者に強烈な執着心と知的運用能力があれば、住所を特定されることは避けられないのではないか。

 

ストーカーの被害者は守られないといけない。彼ら彼女らに非はないし、理不尽な誹謗中傷や名誉毀損が放置されて良い理由はない。

一方で、加害者は罪を償わなければならないと思いつつ、不憫に思う。いびつな感情でしか人間関係を築けないために、彼ら彼女らは一生幸せになれないだろう。誰かに恨みを抱えて生きていくことを宿命付けられているとしたら、救いようのなく可哀想な人たちだと思う。

 

 

ケースで学ぶ犯罪心理学

ケースで学ぶ犯罪心理学

 

 

 

 

たったこれだけに何日もかけた。

書くのが大変さを極める。

完璧主義な側面があるからなのか、止めるとなかなか書き進めることができない。

だからこそ、矯正も兼ねて書こうと思うのだけれど、筆が進まない。

もうね、65点の文章でなく、たったの2点の文章でもいいから書いていく。

寝る前の戯言でも良いのかもしれない。

Twitterに綴る文章に毛が生えたものでも良いのかもしれない。

10月はなんとか、毎日書きたいのだ。

たったこれだけのことを書くのに、何日もかけた。