文章力を上げる最強の3原則

文章力がどうやったら上がるかぐるぐる考えていたので、その備忘録。

 

文章力を鍛えるための要諦は今のところ3つ。

1. 知識を鍛える。

2. 継続する

3. 語彙と表現力を身につける

 

1. 知識を鍛える。

どんなジャンルの記事を書くにせよ、幅広く深い知識が必要。
優れた考察は、丁寧な比較から生まれるから、そのためには予め頭の中に比較対象となる知見を持っている必要がある。

 

佐藤優の"知の操縦法"という本では、反知性主義と対比して体系知の重要性が紹介されている。
そもそも様々な学問は互いに結びつき関連し合い、体系化されていくものであり、その体系化された知恵のことを体系知と言う。

この体系知を身につけるためには、受け身の勉強だけでは難しくて、主体的な学習がマスト。特に人文科学や自然科学を横断的に学ぶリベラルアーツなどはその最たるもの。

あらゆるジャンルで記事を寄稿できるようになるためには、幅広く学問を学ぶに留まらず、その学問・知識が他の分野にどう結びつくのか、どう役立つのかを理解することが大事。

 

自分はこの必要性を大学生活初期からひしひしと感じていた。この体系知を身につけるために、休学したかったと言ってもいい。
でも結果的に、情報の収集と整理の仕方を工夫することでだいぶ改善された。いまは体系知習得への一歩踏み出していると思う。具体的なハウツーに関してはまたいつかまとめよう。

 

インターネット上に転がる記事は、高校レベルの知識がほとんどであって、大学レベルの内容を書けば人を唸らせることができる。特に、現代は科学信仰があるから、心理学や行動経済学や医学の知識を混ぜると、説得力が増す。

 

一方で、大学院レベルの知識は、披露したところでほとんどの人は理解できないため、認知されずに埋もれがち。

 

あと、貪欲に知識を収集することは大事だけれど、知識に騙されてはいけない。これについてはちきりんさんの"自分のアタマで考えよう"を参照。

知識を得ることと、思考することは異なる。
思考するためには知識は必要だが、必要十分ではない。

 

2. 継続する

毎日書くことは本当に大事。

書くことがなくても、書くべきことが自分にはあると信じることが大事だとはあちゅうの"言葉を使いこなして人生を変える"に書かれている。

毎日書くメリットはたくさんある。
それにも関わらず、ほとんどの作家志望者やブロガーを目指す人は、途中で書くことをやめてしまう。
忙しいのかもしれないし、ネタがなくなったのかもしれない。

それでも意地でも書き続けている人だけが作家やブロガーとして活躍している。
続けた人しか成功してる人はいない。きっとこれは他のあらゆる分野に通じる。

これが夢を叶える1%と夢を諦める99%の違いとのこと。
続けたところで夢が叶う保証はないけれど、続けないと叶わないのは間違いないのだ。


特に、継続して毎日書いていくと、インプットの精度が上がる。
情報収集を念頭に、情報を入手しようとなるからだ。

大量のアウトプットを支えるの大量インプットであり、毎日書くためには、毎日何かしら読まなくてはいけない。

加えて、毎日の読書のとき、良い文体や論説に触れ、それを精読をした上で執筆に臨むと、無意識的にあるいは意識的により良い文章の書き方を試す訓練ができる。

また書くことは思考を整理することでもあり、情報の整理にもなる。

 

3. 語彙と表現力を身につける

知らない語彙に出逢ったらその都度メモをし、意味を調べ、どんな文脈で使われるのかを確認する。そして、できるだけ早い時期に自分でも使ってみると良い。今回自分は佐藤優さんの本で"要諦"(=コツ)という単語を学んだので使ってみた。


自分が良いなって感じた表現はまとめていく。
その時、風景描写・人物描写・心理描写・コピー・言葉遊びの5つに分類するといい。

小説にしろ、新聞記事にせよだいたいこの5つに分類できると思う。


コピーは、コピーライティングのコピー。
人の心に刺さるような、どこかテンポよくリズミカルで、本質的な文。
コピーライターやってた人や人気ツイッタラーはこのコピーを作成するのが上手いと思う。

 

言葉遊びは、例えば回文とかのこと。
西尾維新さんはとても上手い。※そもそもNISHIOISHINは点対称なのだ!
あとはRADWIMPS野田洋次郎さん。※最大公約数の歌詞は芸術ものだと思っている!
コツは連想力だと思っていて、普段から遊び感覚で、言葉と戯れると良いだろう。

良い言葉遊びがあれば教えていただきたい。
てか一緒にトレーニングしたい。

では今日はこんなところで。

 

知の操縦法

知の操縦法

 

  佐藤優さんの"知の操縦法"。最近本出しまくってて、中にはなんだかなぁって本もあるけれど、この本は良い。体系知や哲学(特にヘーゲル精神現象学)に関心がある人は一度読むと、勉強の仕方が洗練される。

言葉を使いこなして人生を変える

言葉を使いこなして人生を変える

 

こちらははあちゅうの"言葉を使いこなして人生を変える"。エッセイテイストの本。
この人は言葉が好きなんだ!自分と同じタイプの人間だ! と気づき、はあちゅうを好きになるきっかけになった本。

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

 

 言わずもがな。現代のビジネスマンの必読書と言ってもいいちきりん三部作の1冊。
まだ読んでない人はまさかいないよね…??(←煽り)

 

だらだらなるままに。

昨日はすらすらと言葉を綴ることができた(できはさておき)けれど、今日はなかなか筆が進まない。
過ごし方は昨日とだいたい変わらないのにな。
0からウンウン頭をひねりながら書くよりは、別の読書をしてから書くほうが書きやすいってことを学んだから、最近は精読を1時間くらいしてから自分の文章を書き出している…

…が、今日は書けない。苦しい。うああ。

 ☆

前どこかで読んだ本に、「作家は1つのテーマで何通りも文章を書けて一人前」というフレーズがあった。また、「自分の得意分野でなくても、依頼されたら一つの記事を書くことができる」とも。

書くためには知識がないといけない。歴史から世界のこと、人間の心理から芸術に至るまで。頭の中に保存された膨大な言葉の羅列から、適宜選びとって文章に落とし込む。その過程で、独自の考えを練り上げないといけない。いわばそれは知的作業の集大成みたいな作業だ。

自分は別にライターを目指しているわけではないけれど、一流の作家さんは本当にすごい。西尾維新なんて一日に書く文字数は2万を超えるという。2万ってなんだ?自分が1時間書けて必死に書いた2000字の10倍だって!?書くのが生業とはいえ次元が違い過ぎるだろう。

 

作家はすごいよ本当に。

 

作家でなくとも、Facebookを見渡していると、この人すごいなって人はたくさん見かける。一つ一つの文章が練りこまれていて、深い知性と洞察が伺えて、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受ける。それでいて自分より何歳も年下だったりするのだから、もはや焦りしかない。はぁ。



今日うまく書けない原因があるとすれば、それは昨日から今日にかけて、文章のテクニックに関する本をいくつか読んだことだろうな。
●「が」と「は」の違い
「が」は格助詞で、「は」は係助詞。格助詞である「が」は主格を作るが、「は」は作らないらしい。
●接続詞の正しい使用法
「ので」は「根拠・理由・原因」、因果関係がしっかりしていないとトンチンカンな文になる。
●文章の組み立て方
過去・現在・未来と時の流れに沿って、その変化に注目して書いてみると良い。
●比喩表現のコツ
比喩のトレーニングにはなぞなぞが便利。空に浮かんだわたあめはなーんだ?→雲!みたいな。
●細部に気づく方法
視点をたくさん持つことで細部へと視点を移していくことができる。

…色々勉強してみたけれど、それがかえって書くことのハードルをあげてしまった気がする。勉強したのだから、質の高い文章を書かないといけない…!そんな風に無駄に気負ってしまってなかなか書けない。

下手くそで内容の薄い文章で今日は良いと思うことにした。
そうだ。今は下手くそでいい。
自分の頭の中にある内容をうまく言語化する力とスピードを身につけるのが今一番の課題。

駄作だけれど今日のところは許してくだされ。

 

ブログは文章を書く練習台

このブログは文章を書く練習のためにやっている。

あらゆるスキルの習得において一番基本となるのは継続であり、その近道が習慣づけだから。


トレーニングが日常の一部となった人は強い。

呼吸をするように毎日走る人、勉強する人、ピアノを弾く人…
彼ら彼女らはきっと自分では頑張っている・努力している意識はそこまでないのかもしれない。

でも毎朝走っている人は、そうでない人より中高年になっても元気で若々しいだろうし、
1日の中にたった数十分でも教養を深めビジネスに役立てようとインプットとアウトプットを繰り返している人は、そうでない人より間違いなく優秀な成績を収めるだろう。


昔呟いたことだけれど、インターネットによって全ての個人が情報発信をすることができるようになった今、個人単位の思考や創り出したものが、何万何億の価値を生み出す可能性を秘めている。

YoutuberやInstagramerが流行と宣伝において強い影響力を持っているのはその証明だし、Twitter発の小説家なんて戦前の文壇が聞いたら卒倒するだろう。

私自身はピアノは弾けないし、歌も歌えない。
今からYoutuberなんて目指しても、星の数ほどある動画の最底辺に埋もれるだけだろう。Instagramみたいなキラキラした世界とも縁はない。


文才は?

自分が一番わかっている。

そんなものはない。

持てるのなら持って生まれたかった。

江國香織のような透明感のある描写力で繊細に本を書きたかったし、
平野啓一郎のように学生の間に賞を取ってしまうようなすごい人になりたかった。

だが残念ながらそんな才能は自分にはなかった。

それでも文章は書きたいと思うし、文章力さえあれば、今の時代より生きやすくなるのは間違いない。
別に作家にならなくとも、何らかの問題意識を抱えたときに、その力を人や社会に訴えかけることに使うことができる。

自分の将来設計の上で、文才は必須だと思った。

だったら血の滲むような努力をしないといけない。

とりあえずは数日は書き続けることができている。
書き続けることを自分に強いて、覚悟を据えると、日々色々気づくことがある。
毎日よりよく書くために、やり方が洗練されていくし、
何より情報の収集の際に、文章を読む姿勢が変わった。
文章は考えないと書けないから、嫌でも考えるようになった。

また、意地でも継続することは、他の習慣を守ることにも繋がっている気がする。
ブログを更新することを止めないためには、他の生活を破綻させるわけにはいかないから。

アウトプットを続けるためにはインプットも続けないといけない。
毎日60分でも120分でもじっくり本を読む時間を取り続けたいと思う。

 

こちらははあちゅうさんの本。

本当にすごい。壮絶な経験から這い上がって邁進していく姿勢に共感と敬意しかない。
頑張っている人はそれだけで人を勇気付ける。 

半径5メートルの野望 完全版 (講談社文庫)

半径5メートルの野望 完全版 (講談社文庫)

 

 

休学について

もう長いこと休学について悩んできた。

はじめに休学という選択肢が頭をよぎったのは、大学2年生の頃だったと思う。
当時私は医学部以外の人から、学生でない人まで幅広く人に会って刺激を受けていた。
自分の知らない世界がたくさんあることを知って、それらをより深くクリアに考察するためには、ゆっくり時間を取ることが必要だと感じていた。

本を読むことと英語を克服することの重要性を痛感していた。
世界史や人類学や社会学、心理学や哲学の本を片っ端から読みたいと思っていたし、
英語を使って世界中の人と議論をしたいと思っていた。

結局休学はしなかった。

それは"何をするため?"という質問に最後まで答えられなかったのだ。

本を読むため、留学をするため、現場を知るため、それらでは休学をするには理由は十分ではなかった。
本を読むことも留学をすることも現場を知ることも、学生生活を送りながらやろうと思えばできるはずのことだったから。
できるのにしないのだとしたら、それはただ自分の努力が足りないことになる。

私は踏ん切りがつかずに諦めた。

それで良かったのかどうかはわからない。
もしあの頃に休学に踏切り、海外で数ヶ月過ごし、英語を克服し、浴びるように読書をしていたら、今の自分にはない可能性が拓けていたかもしれない。

でも同時に、あの頃の自分は、自身の経験を体系化して血肉としていく力は不十分であったから、そんな状態では世界を見て聞きしても、知ったことの多くは人生の糧にならずに泡になって消えたことだろう。

私は学生を続けることにし、今に至る。

そして、長年の休学への願いは、卒業後に1年間働くことなく放浪することで叶えることにした。
マッチングはしていない。
皆がESを書き、マッチング試験対策にいそしむ中、私は家で本を読み漁っていた。

「1年間何をするの?」とよく聞かれるけれど、実のところ私は1年間特に何をするか決めていない。

決める必要はないと思ったのだ。

自分の中で、医者になる前の20代前半に自由な1年間を設けた人生と、そのままエスカレーターのように医者になってキャリアを築く人生を比較した時、圧倒的に前者が魅力的に感じ、後者の道を選んだ場合一生後悔することがわかりきっていた。

だから、前者の道を選ぶことに迷いは全くなかった。

その時何をするかはその時決める。

やることは特別決めていないが、やりたいことは山のようにある。

数年前と比べて良いのは、自分の人生かけて関わりたいテーマがはっきりしていること、知識や経験の体系化ができるようになったこと、世の中の仕組みに詳しくなったことだろう。

これらの基盤がしっかりしていれば、どこにでも立ち向かえると思った。
どんな経験をしたって、それを無駄にすることはもうないと思った。

休学はしたいならすればいいと思う。
いや、できるならすればいいと思う。
国公立の大学であれば、学期の切れ目に注意すれば、学費もかからずに籍を置いたまま、休学することができる場合が多いはずだ。

たとえ思いっきり無駄にしたかのように思えても、人と異なる経験をしたことは、確実に財産になる。
人生初期の1年,2年の遠回りに無駄なことなんて何一つない。

休学をして初めてやりたいことが見つかることもあるだろうとも思う。
未来が不透明なこの時代に、ストレートで社会人になることもリスキーだとも言える。

正解はない。
後悔しない選択をし続ければうまくいくと思っている。

寂しさについて

寂しさはこの世で一番厄介な病だと思う。

生身の人間一人では絶対に解決できない問題だからかもしれない。


幸いにも自分は寂しさには耐えられるタイプの人間だったため、寂しさでしんどい思いをすることは少ない。
それにはきっと二つの理由がある。

子供のころ、僕は家族に愛されていたと同時に孤独だった。
家族は自分を愛してくれていた。それを自分は疑ってはいない。
家族は僕の居場所であれた。

一方で、僕は中高生のころ、人と深く関わるということを避けてきた。
中学の時の嫌な経験や兄弟との確執が原因で、心を閉じ込め、他者と一線を引いた生活を送っていた。

僕は愛されていたけれど、一人だった。

だからかもしれない。
一人でいることが寂しいという感覚は自分にはあまりない。
ずっとそうだったから。

 

「寂しくなってしまう」と相談されて、そうかと思う。
そう感じてしまう人は2タイプいるだろう。

一つは愛に囲まれて生きてきた人たち。
もう一つは、愛されて来なかった人たち。

前者は問題はない。でも、後者はなかなか大変だ。
彼ら彼女らは、心のどこかで自分は愛されるような人間ではないと自分自身で思い込んでいる。

それゆえに他人の愛情を信じられなかったりする。

そこに広がるのは底のない沼のような…与えても与えても塞がらない穴がひたすらに広がっているような…そんな感じがしてくる。

自分を愛せない子供を育ててしまった、親も教育も社会も全て罪深い。